SamuZai
myy
myy

fanbox


鰐囚人が懲罰で長時間拘束されて小便を漏らす話

 11月25日午前11時18分、シャドロン獣人刑務所にて発生した男性囚人による他の囚人への暴行事件は、発生報告を受けてから約一分後に鎮圧された。 鎮圧の過程において、暴れる囚人を取り押さえようとした刑務官十数名や喧嘩に巻き込まれた囚人数名が軽度の傷を負った他、暴行事件の被害者一名(囚人番号T4561)が左腕の骨や鼻骨を折るなどの怪我を負い、医務室へと搬送された。また、喧嘩の過程で刑務所内共用スペースの椅子机十数台及び床・壁面の破損を確認している。  今回の騒動への処分として、暴行事件の主犯であると証言を受けた囚人一名(囚人番号T4282)に対し、懲罰として追加懲役一か月及び三週間の囚人衣はく奪のほか、先日の会議において検討された『特殊更生用映像プログラム』の試験的行使を検討する。  囚人番号T4561の処遇については、後日事情を聴取の上で判断を下すこととする。 ◇ 「以上が今回の騒動の顛末と、君に与えられる懲罰の全てだ。異論はないな、囚人番号T4282」  確認の体を装っているが、その壮年の刑務官による語気は鋭く、とうてい反論など許されそうもない重みがあった。さながら裁判官が罪状の烙印を押すかのように吐かれた言葉を、囚人番号T4282――緑鱗の大柄な鰐人で、いかにも囚人らしく強靭な肉体と、剣呑で悪漢めいてささくれだったような面立ちの男――は舌打ちを以て返答をした。 「納得いくかよ! 最初にぶつかってきたのはあの羊野郎のほうだぞ」 「きっかけがどうあれ、結果としてお前は奴を負傷させた。発端がどうあれお前の罪は重く、罰もまた重い。無論、T4561にも相応の処罰は下されるだろう。お前の“ぶつかってきた”という証言が事実であれば、だが」  ちいッ、と緑鱗の鰐人は再び舌打ちをし、刑務官を睨みつける。金属製の椅子に錠で手足を拘束されていなければ、睨みつけるだけでは到底済まないだろう迫力があった。  鰐人はしばらく沸々と煮え滾っていたが、ややあって一つ息を吐く。それからいかにも小憎たらし気に、挑発の語気を孕んだ声を刑務官へと投げかける。 「ああ、ああ、そうかよ。けどな、生憎もうパンツ一丁で過ごすのには慣れっこさ。法改正だかなんだか知らねえけどよ、暴力振るえなくなって残念だったなァ刑務官ちゃんよ」  一年と三か月ほど前に施行を迎えた獣人刑法の改正に伴って、これまで肉体強度の強靭さのために許容されていた、獣人種の囚人への暴力を伴う懲罰のすべてがご法度となった。それまで獣人の囚人に対する懲罰は鞭打ちや電流責め、警棒による矯正といった直接的な暴力の行使によるものが主であったのだが、一定期間の拘束や自由時間の没収、懲罰の深度によっては数日から数週間の囚人衣のはく奪など、直接的な肉体への負傷を伴わないような懲罰にとって代わることとなった。  しかし、それがいくらかの獣人種囚人の増長を招く結果となった。結局のところ原始的な暴力を孕んだ懲罰でなければ“懲りない”囚人というのは多いようで、ここシャドロン獣人刑務所のほか、別の獣人刑務所においても、懲罰規定の改正後の方が囚人間のトラブル件数が増加したという結果がある。トラブルを起こし罰せられたとて、死ぬほど痛い目に逢う訳ではないようだ――と彼らは改正法の愚かさに気付き、気付いた結果、彼らは愚かな振る舞いをするようになった。 「それで今回も裸にされて、あとは『特殊更生用映像プログラム』? なんだか知らねえけどよぉ、洗脳するような映像でも見せられるのか? しょうもねえ映画みてえだなあ」  囚人番号T4282も“懲りない”種別の囚人であることは、これまでの懲罰遍歴からしても自明である。強盗傷害容疑で実刑判決六年を言い渡された彼は、幾度となく他の囚人と諍いを起こし、そのたびに与えられる懲罰の強度は増していった。それでも音を上げることなく、矯正の意志どころかむしろ刑務官に対する反抗心をいっそう昂らせていくような人格の男が、急に“しばらく懲罰房に閉じ込められるだけ”“ずっと反省文を書かされ続けるだけ”“期間中、ずっと同じパンツ一丁で活動させられるだけ”といった温い懲罰しか与えられなくなれば、増長もやむなしであるだろう。 現在、四方を白い壁面で囲まれた部屋の中央に設置された椅子に手足を拘束され、そして鰐人特有の強靭な胴回りと太腿に引き延ばされ、ほとんどビキニブリーフのような様相になっている灰色のボクサーパンツのほかには一糸まとわぬ丸裸の状況であれど、鰐人の男は大して怯えるでもなく慌てるでもなく、ニタニタと品のない笑みを浮かべるばかり。これから懲罰が下されるような態度ではまるでない。 「なあなあ、映像ってなんだよ。もしかしてアレだろ、AVとかか? 手足拘束したのもマスかけなくして悶々とさせて苦しませるとか、どうよ、当たってる?」  口を開けば下劣が並ぶ。これ以上鰐人の男と対話を交わす義理もない刑務官の男はプロジェクターのリモコンを操作し、鰐人が座らされている真正面にスクリーンを下ろすと、『特殊更生用映像プログラム』を再生した。  途端、部屋の四方に設置されたスピーカーから、音質の悪い音楽――チープでメルヘンチックな、いうなれば幼児用の知育ビデオのような――が爆音で流れ出し、スクリーンに幼児向けの簡易なデフォルメタッチで描かれたライオンと牛らしきキャラクターが現れる。  ――よいこのみなさん、こんにちは!  ――今日はぼくたち、ライオンくんと!  ――ウシさんといっしょに!  ――どうしてわるいことをしちゃだめなのか、いっしょにおべんきょうしよう! 「……は?」  更生用映像と聞いて想像した中に、この幼児向け知育アニメのような光景はなかったらしく、映像が映るまでは余裕しゃくしゃくといった表情を浮かべていた鰐人の顔が怪訝そうに歪む。思わず刑務官に困惑の視線を送るも、刑務官の男はそれを無視して映像の音量を調整した。 「一時間後、映像が終わるころにまた来る。それまで大人しく見ていろ」  鰐人の耳元でそうつぶやき、男は部屋から立ち去った。ドアを閉める直後鰐人の男が何かを喚き散らしていたようだが、映像のメルヘンチックな音に紛れて何も聞き取ることはできなかった。 ◇ ――ねえウシさん、どうしてわるいことをしちゃダメなんだい? ――それはねライオンくん、わるいことをすると、かなしむひとがいるからだよ。 「……何だこれ、何見せられてんだ俺は」  『特殊更生用映像プログラム』とやらの開始からいくらかが経ったが、鰐人の男は未だに状況が飲み込めそうになかった。想定していたのはいかにも公的機関らしいチープな出来の啓蒙映像で、免許センターで度々見せられるような教習ビデオのようなものだったのだが、眼前のそれはどう見てもそれより数段、いや更に格の低いものだ。格というか、対象の年齢層というか。 ――ライオンくん、わるいことをしたあとはどんなきもちになる? ――うーん、えっとね、さいしょはすっきりするけど、でもだんだんモヤモヤしてくるなあ。 「マジでなんだよ、バカにしてんのか……?」  スクリーンに映し出された映像にはほとんど動きがなく、止め絵の二頭身キャラクターたちがまるでつかみどころもないような他愛ない話を続けているばかりだ。おまけに、ライオンとウシの声を当てているのは間違いなく素人――おそらくは刑務所の職員の誰かだろう――で、抑揚のない、鼻にかかったような棒読みの音声が苛立ちを増長させる。仮に自分が椅子に手足を拘束されていなければ、すぐにでもプロジェクターを叩き壊してスクリーンを爪で引き裂いてやっただろうと思うほどに。 ――そのもやもやはね、りょうしんっていうの。わたしたちがわるいことをしてはいけないとおもう、だれにでもあるたいせつなきもちなの。 ――そうなんだあ。りょうしん、なんだかあったかいひびきだねえ。 「あああクソ、しょうッもねえなあ!」  こんな内容のものを一時間も見せられるなどゾッとする。ムカつきすぎて血管が千切れるかすっかり脳が洗われてクソッたれメルヘン村の住人のなるかのどちらかだし、どっちも願い下げだった。  とはいえ、椅子に手足を拘束されている以上、映像から免れる方法はない。口の中で映像の一挙一動一台詞に対して悪態を転がし、悪辣な態度をとることでメルヘンの波に飲み込まれないよう耐えるしかない。 (クソ、バカにしやがって……こんなのが懲罰だと?)  腹が立つ。自分の目の前をちんたらと歩いていて、ついついケツを蹴っ飛ばしたくなるような弱っちい羊のボケカスにも、十数人がかりで取り押さえてきたクソの刑務官どもにも、それを見世物のように笑いながら見ていた他の囚人のカスどもにも、そしてこんなしょうもない刑罰を与えてきた刑務官にも、クソッたれの映像そのものにも。 (いいさ、そっちがこんなクソまみれの映像で矯正できると思ってるなら、そういうふうに振舞ってやるよ……!)  映像が終わったらすっかり感銘を受けたふうにでも振舞って、精々あの刑務官を満足させてやろうと鰐人の男は思った。連中はあんなチープな映像に心を洗われてしまう囚人を嘲笑うだろうが、むしろその逆、心が洗われているとすっかり思い込んでいる刑務官どもを自分が内心で嘲笑ってやるのだと。  しかし、鰐人の男がそんな悪辣な決意と共に映像を睨みつけていたのもほんの五分程度のことだった。単調な音楽と面白みに欠ける会話が鰐人の男の集中力をじわじわと削り取っていき、やがて強烈な睡魔に襲われるのにそう時間はかからなかった。 ――ライオンくん、どうしてわるいことをしちゃいけないのか、わかったかな? ――うん、よくわかったよ! ウシさん、クマくん、ありがとう! 「……あ?」  じゃあん、と映像のBGMが一瞬大きくなり、眠りに落ちていた鰐人の男は鼓膜を震わせる衝撃で目を覚ました。自分でも気が付かないうちに寝落ちてしまったらしい。肉体は空調のせいかそれともパンツ一丁の裸に剥かれているせいかすっかりと冷え込み、そのせいか思考は若干靄がかったような気だるさがあった。鉄製の冷たい椅子に座らされ、拘束されたままの寝落ちのせいで、全身が凝り固まって鈍い痛みを放っている。 「あー……クソ、寝ちまった、か」  映像の右下に大きく『終』と白文字が表示されて、ぷつりと映像が途切れる。鰐人の男はあれから既に一時間ほどが過ぎ去ったことを理解した。当然ながら映像の内容などまるで覚えていない、というか知らない。しかしともあれこれで『更生プログラム』とやらは終了したらしい。 「過去一しょうもねえ懲罰だな」  これなら懲罰房の寒さに震えていた方がずっと懲罰らしいだろう、と鰐人の男は思った。ついに刑務所側がヤケでも起こしたのかと心配になるレベルの罰のクオリティにもはや呆れ混じりに独り言ちて、それからぶるりと身震いをした。 「クソ、空調効きすぎだろ……つーか喉乾いたな……あいつ、早く来ねえかな」  刑務官は丁度一時間に来る、と言っていたような――と、映像が始まる直前に囁かれたことを引き戻そうと思いに耽ろうとしたその時、部屋の外からコツコツと靴音がする。刑務官の革靴が立てる、乾いた音だ。鰐人は崩していた姿勢を正して、いかにも素敵な映像を拝聴したばかり――とでも言いたげな態度を取った。 「終わったか。しっかり映像は目に焼き付けたな」  部屋に入ってきた刑務官の男に、鰐人の男はこれ見よがしに背筋を伸ばした。 「はい! しっかりと目に焼き付け、悪いことはしてはいけないなあと思いました!」 「そうか。そうだな」  男は冷徹な語気のまま、鰐人の言葉を肯定してみせた。刑務官が自身の言葉を馬鹿正直に信じているとは到底思えないが、そういわれている以上あちらとしてもそう肯定せざるを得ないのだ。まさかほとんど視聴せず眠っていたなど、想像もしていないだろう。 「では、これからしっかり視聴していたかのテストを始める。まず第一問――」 「……は? な、なんだよそれ! 聞いてねえぞ!」  テスト? 第一問? そんなの聞いていない。鰐人は抗議の声をあげて身を捩ったが、刑務官の言葉は遮られる様子もなくつらつらと進んでいく。問答無用、ということのようだ。 「ライオンくんがもやもやする、と言っていたものの正体を、ウシさんはなんと答えた?」 「あ? あー……なんだったかな……」  確か映像の最初の方に何かそんなくだりがあったような気がするのだが、当然ながら鰐人はそんなこと覚えている訳がなかった。斜に構えたようにしか映像を眺めていないのだから当然だ。必死に記憶を絞り出そうとするが、答えられるはずもなく。 「えーと、感情、とか、か?」 なんとなく刑務官の顔色を窺うようにして吐き出された答えに、刑務官の険しい眼差しがいっそう冷たさを増したものだから、鰐人はすぐに己の回答の誤りを理解した。 「……違う。映像をしっかり視聴していなかったとみなし、再視聴を言い渡す」 「さ、再視聴……!?」  これも聞いていない。あのしょうもない映像をまた見せられるなど悪夢でしかない。しかも、内容を問われるならきちんと視聴していなくてはならないのだ。 「計三問、内容についてきちんと回答出来たら映像は終了だ。しっかりと、視聴しておけよ」 「クッソ……そういうのは先に言えよ!」  すまない、忘れていた――そう語る刑務官の表情は硬いが、口端を僅かに歪めているふうでもあった。おそらく、意図的に自分にその情報を伝えなかったのだと理解し、鰐人は酷く腹立たしい気持ちにさせられる。 「では、また一時間後」 「おい、ふざけんな! なんにも聞いてねえぞ!」  刑務官によってスクリーンの映像が冒頭まで巻き戻されて、再びあのくだらない映像が始まる。面白みにかける単調な音楽が流れだし、ウシとライオンのキャラクターが現れる。鰐人の男の抗議をまるでないもののように刑務官は去っていき、部屋には鰐人ひとりが残される。 「そういうことかよ……!」  鰐人はようやくこの懲罰の本筋を理解し、悪態をついた。映像も音楽も音声も内容もクオリティが著しく低いのは、すべて視聴者の精神を摩耗させるための要素だったのだ。そのうえで何度も繰り返し視聴させることで、思考に直接非暴力の訴えを擦り込んでいくとか、そんなところだろうか。なんともバカバカしい。 「上等だ、やってやるよ……!」  鰐人は抵抗の意を込めてスクリーンを睨みつけた。懲罰の構造の全景が浮き彫りになった今、次で蹴りを付けて刑務官の鼻を明かしてやるのが最も成すべきことだと思った。  少なくともこの時の鰐人は、これが懲罰の全貌だと信じてやまなかったのだ。 ◇ 「第三問。クマくんが昔やった悪いことと、そのことに対して彼はどのような心情を述べたか」 「あー……えっと……ああ、弟に暴力を振るった。すごく悲しくなって、すぐに仲直りをしようとしたけど上手くいかなかった。まだ関係はしっかり修復できていなくて、とてもかなしいし、やらなければと思っている」 「正解だ」 「……っしゃ!」  内容を記憶する、という前提で見てみれば、刑務官の問いはそこまで難しい問いでもないものだった。クマくんの身に着けていた服の色とか聞かれたらどうしようと思っていたが、それは不要な懸念だったらしい。考えてみれば“内容を擦り込ませる”というのがこの懲罰の狙いなのだから、それとは無関係なところを覚えさせても意味がないというのは当たり前の話だ。 「あー終わった終わった。ほら、早く解放してくれよ。この椅子硬てえんだよ、ケツがいってえのなんの」 「解放はしない。まだ次の映像がある」 「……は?」  解放はしない? 次の映像? 刑務官の言っていることを飲み込む前に、刑務官に操作されたプロジェクター上に「チャプター2」の表記が浮かび上がる。ややあって、先ほど嫌というほど齧り付いたような映像が表示され、そこでようやく鰐人は思考回路を再起動し、唾を飛ばした。 「ちょ、ちょっと待てよ! 次ってなんだよ、聞いてねえし!」 「ああ、言っていない。ちなみにこの映像は二時間半あり、問題は計十問」 「にっ、二時間半……!?」  二時間半。あの質のクソ映像をそんな長時間見せられるなど、冗談じゃない。しかも問題は計十問、一問でも回答を間違えればさらに二時間半の視聴時間が追加されるということだ。そんな仕打ち、正気の沙汰ではない。 「ま、待てよ! せめてぶっ通しは勘弁してくれ! 休憩、とりあえずこの拘束を解いてくれ! あと水! 水を飲ませろ!」  硬い椅子に拘束されたせいで全身が凝り固まっていた。それに冷房の効き過ぎで全身が冷えている。乾燥しきった部屋の空気のせいか喉もすっかり乾いていたし、とにかくコンディションがよろしくない。こんな状態で次の映像を鑑賞させられたとしたら、到底集中できずに再視聴させられるのは自明だった。 「拘束の解除は認められない。だが、給水は許可する」 「分かった、それでいい。なんでもいいから、ちょっと休ませてくれ……」  一言一句逃さないようにと齧り付いて映像を眺めたせいか、件のメルヘンムービーはすっかり瞼の裏に焼き付いてしまっていた。退屈なものを集中して鑑賞しなくてはならない、という行為は、精神をひどくくたびれさせるものである。 「水分を用意する。少し待て」 相変わらずの鉄面皮のまま、刑務官はそう言い残して部屋より退出した。扉が閉まったのを音で確かめ、自分以外に部屋に誰もいないことを確認してから、鰐人の男は疲弊したようにため息を吐き、辟易としたように呟いた。 「くそ、くだらねー……」  電気鞭で何度か全身をシバかれるとか、警棒で顔面を叩かれるとか、そういった物理的な懲罰が恋しい訳ではないが、少なくとも法の改正以降に与えられるような回りくどく面倒な懲罰よりはずっとマシだった。やれ反省文を数百枚書かせるだの、下着一枚で活動させるだの、そういういかにも粗相をした子供に与えるような罰を下されるのは、自分たち囚人が分別のない子供だと言われているようで癪だ。 (なにが『特別更生プログラム』だよ恰好付けやがって。金がねえからあんなチープな映像なんだろうが)  あんなもので更生するなら囚人になんぞなっている訳がない。このなんたらプログラムにゴーサインを出した連中は、どうやらそんなことも分からないようだ、と鰐人の男は内心馬鹿にしたような笑みを浮かべる。 「水分を用意した。三分以内に給水を完了しろ」  そんな中に刑務官が部屋に立ち入ってきたので、鰐人の男は慌てて背筋を伸ばし、呼吸を整える。いかにも一切態度を弛ませないよう待機していたというように振舞うのは、内心この懲罰を舐め腐っていることを変に勘づかれたら面倒だ、という打算のためである。  刑務官が持参したのはガラス製の水筒――手足を拘束された囚人用に、飲み口にストローが差し込まれているもの――で、中に詰まった液体は透明感のある黄金色。少なくとも水ではないことは明白である。 「なんだ、小便でも飲ませるつもりかよ」 「エナジードリンクだ。映像視聴の途中で居眠りなどされては困る」 「ああそうかよ、気が利くことで」  刑務官に口を開けるよう促され、ストローを差し込まれる。吸い上げれば口腔に合成甘味料の退廃的な甘ったるさと、気の抜けた後の炭酸飲料のように微弱な発泡感が舌を覆った。市販のドリンクよりは数段格が落ちるものだが、ついぞ何年も口にしていない甘みと清涼感は、刺激の乏しい獄中において快いものと言えなくもない。 「あと二分だ。早く飲め」 「うるせえ。ペースってもんがあるだろうが」 「時間内に飲めなければ命令に対する反抗とみなす」 「クソッ……量が、多いんだよ……!」  500mlボトルのほとんど満杯まで詰め込まれた液体を、必死に細いストローで吸い、喉の奥へと流し込んでいく。甘味料のチープな甘さを味わう余裕はすっかり失われ、時間内にどうにか飲み下すこと以外に考え事をする余裕はなかった。 「……っ、ぷはっ! はーっ、はーっ……うっ、げえっ」 「よし、給水は完了だ」  一度息継ぎを挟んだ以外はほとんど一気飲みのような要領で、鰐人の男はエナジードリンクを飲み干した。空の胃袋のなかにずっしりとした水分の重みを感じ、胃袋の中で気化した炭酸ガスが喉元へとこみ上げ、不快な音が喉元から漏れる。甘ったるい液体を多量詰め込まれたためか、胸焼けの感覚がひどい。 「では、映像の視聴を開始する。二時間半、集中して視聴するように」 「言われなくてもそうするっつーの……」  なにせ映像の内容に関して一問でも答えられなければ再視聴。こんなことを繰り返していたら日が暮れるどころか日を跨ぐ可能性すら否めない。鉄製の固い椅子に拘束されて丸一日など、身体がどうなるか考えたくもなかった。  部屋の四方に設置されたスピーカーから、ガビついた音質の音色が再び流れ出す。 鰐人の男は覚悟を決めて姿勢を正し、深く息を吐いて画面を睨め付けた。 ◇ ――したがって、シャロドン州刑法208条によって定義される「暴行」とは人体に向けた有形力の行使、つまり殴るや蹴るなどの物理的な力を加えることを指すんだね、ウシさん。 ――そうだね、ライオンくん。でもね、獣人種と人間種みたいに、種族のくくりが違う間柄での「暴行」の定義においては、行使者と被行使者がどの種族かによって有形力の強度が取り沙汰されるんだ。極端な例を言えば、人間が獣人種を引っぱたいた程度だと、「暴行」の定義に該当しない可能性も―― (な、なんだこれ……俺はなにを見せられてんだ……!?)  鰐人の男は茫然とした表情で映像を見つめていた。二頭身の獣人キャラクターたちが、画面上でほとんど動くことなく会話の応酬を繰り広げている様子、それ自体は先ほどの映像とほとんど同じことなのだが、繰り広げられる会話の量もその難度もまるで異なっており、先ほどの映像が幼児教育用のムービーだとすれば、こちらは法学生の受講する専門的な講義のそれと言えた。そして当然、そのような知識を持たない鰐人の男に理解できる範疇の内容ではない。 ――でも、昨今の法改正によって獣人種が有形力の被行使者となった場合の「暴行」とみなされる範囲が見直されたんだよね。 ――そうだね、ライオンくん。これは三年八月十四日のワイルドランド獣人刑務所囚人折檻事件が発端となっており、シャロドン州裁判所における判決文を基に具体的な内容を紐解いていくことにしようか。 「くそ、全っ然、頭に入ってこねえ……!」  相変わらず起伏がなく、またつらつらと流れるような台詞を字幕もなしに聞き取ることなど不可能に近い。しかも当然のように法律に関係するような専門用語が頻発するものだから、開始数十分にして鰐人は既に話の内容を理解することができなくなっていた。 「畜生! アリかよこんなの!」  てっきり先ほどと似たような温度感でくるものだと思っていただけに、突き付けられる絶望は大きい。先ほどのような映像なら必死に齧り付いていれば内容を追うことはできなくはないが、こちらはどう転んでも不可能だ。なにせ知識の下地がない状態で専門的な内容を追わされているのだから、何一つ分かるはずもない。どのような方向性の問題が突き付けられるかだけは容易に想像がつくが、答えられる気はしない。  また、問題はそれだけではなかった。映像の内容とは異なる問題が、鰐人の男を徐々に蝕みつつあったのだ。  ――整理しようか。つまり、この判決文において「暴行」とされるのは……。 (やべえ、小便したくなってきた……ッ)  僅かに腰を浮かせて、また座り直す。両手足を椅子に拘束されている以上、そのような些細な抵抗を繰り返すほかに耐えるための術は存在しない。せめて脚を閉じることができれば多少は楽だっただろうが、そうもいかなかった。 「っ……ふーっ……ああ、くそっ……」  鰐人の男は深く息を吐き、次第に張り詰めつつある下腹部を刺激しないようゆっくりと息を吸った。どうにか映像に集中しようと視線を持ち直すも、思考は難解な会話よりも強い存在感を放つ尿意の方へ割かれてしまう。 「エナジードリンク……そうか、カフェイン……」 男が催す原因はいくつもあった。エナジードリンクを500mlも一気に飲まされたことで、ドリンクに含有されたカフェインの利尿作用が男の下腹部で猛威を振るっているし、空調の温度が極端に下げられているために、パンツ一丁というほぼ裸の鰐人の体温は冷え切った外気によって少しずつ奪われていて、冷えもまた尿意を誘発する要因となっていた。 (あと……どんくらいだ、この映像……) 男の視界に入る位置に時計はなく、したがって正確な時間を読み取ることは不可能だった。しかし、映像の上映開始からまだ一時間も経っていないだろうことは感覚で理解している。楽観的に見積もっても、あと二時間程度はこのままの状態で耐えなくてはならない。 (冗談キツイぜ……クソッ、さっき言い出しとけばよかった……!)  いくら拘束の解除が認められないとはいえ、生理的欲求にかかる要求なら受け入れられて然るべきだろう。だが既にこの部屋から刑務官が去ってしまった以上、声を上げるには遅すぎた。もう少し早くこうなることを予見できていたなら、と歯噛みしながら、鰐人はしきりに腰を浮かせては下ろし、上半身を捻るように揺らして尿意を誤魔化す。当然、映像の内容など微塵も入ってこない――尿意がなくとも理解できていたかは別の話だが――ので、再視聴させられるのは明らかだったが、今の状況においてはそんなことはどうでもよくなっていた。少なくとも、一張羅のパンツがぐしょ濡れになって最悪な気分になるか否か、というところの方が重大な問題である。 (待てよ……これ、もし漏らしても、しばらくそのパンツのまま生活しなきゃならねえのか……!?)  そこでふと思い至り、鰐人の男は目を見開いた。懲罰として、何度かパンツ一丁での生活を強制されたことのある鰐人の男は、懲罰期間中一度も下着の交換が許されなかったことを思い出したのだ。服を着られないこと自体は、寧ろ墨の入った自身の肉体の屈強さを合法的に周囲に誇示できるという点で気分のいいものだったが、下着の交換が許されないというのは中々に堪えた記憶がある。特にあの時は夏で、肉体を酷使する刑務作業でかいた汗や土埃、切りきれなかった小便などのさまざまな液体を吸収し、三日もすれば布地は極悪な臭気を放ち始め、蒸れた局部が痒くなってたまらなかったものだ。 (ああクソ、漏らす訳にはいかねえぞ……耐えろ、耐えるしかねえ)  臭いだけではない。もし粗相などしてしまえば、グレーのボクサーパンツはその“痕跡”を黒々と浮かびあがらせるだろう。それを見た周囲の囚人が、「こいつは小便を漏らしたのだ」という眼差しを向けてくることを想像すればするほど、その屈辱に耐えられそうもない。そうなれば、暴力性だけで培われてきた刑務所内での立ち位置も一瞬のうちに崩落するだろう。今後の刑務所生活の瀬戸際に立たされているという事実に、鰐人の男はようやく気が付いた。 ――「暴力」の定義について、わかったかな? ――うん、よくわかったよ、ウシさん。じゃあ次は、シャロドン州刑法204条によって定義される「傷害罪」について勉強していこうか。 (黙ってろよ、畜生ども……! あああ、小便、小便してえ……っ)  “退屈”な懲罰が、不意に地獄の面を覗かせる。  鰐人の男にとっての、地獄が始まろうとしていた。 ◇ ――つまり、怪我をさせる意思で殴りつけ、その意思の通りに怪我を負わせた場合は傷害罪で、殺す気で殴りつけたけど怪我でとどまった場合は、ええっと……。 ――殺人未遂罪だね。じゃあ、怪我をさせる意思で殴りつけたけど、打ち所が悪く相手が死んでしまった場合はどうなるのかな? ――えーと、えーと……。 (はっ、やっ、くっ、答えろよこのクソライオン……!) ――なるほど、つまりヒツジさんの場合は、殺す気はなかったけど結果的に相手が死んじゃったから、適用されるのは傷害致死罪だ! ――よくできました! じゃあ、次は……。 (まだあんのかよ……! あっ、うう……やべえ、「波」が……ッ) ――つまり、獣人は前提として「肉体的強靭性の違いから、人間への攻撃は致命傷になり得る可能性が高い」という認識を持っているものとするから、危害を加える場合はすべからく殺人未遂罪が適用される可能性がある、ということだね。 ――獣人は人間を攻撃するとき、気を付けないとだね。 ――こら! そもそも人を攻撃しちゃダメだよ! (あああクソッ! 漏れる、漏れる漏れる漏れる……! ションベン、もう、出ちまうっ……) ――じゃあ次は、暴行によらない無形力の傷害が生じる事件について紐解いてみようか。 ――はーい。でも、暴力が振るわれていないのに傷害罪ってどういうこと? 「あああっクソッ! 畜生! 漏れる! くっそお、外せ! はやく、終われよォーっ!」  映像は淡々と進行を続け、対照的に鰐人の男はいよいよ耐えきれなくなって椅子に括られたまま暴れ散らしていた。拘束された鉄椅子をぎちぎちと揺らし、椅子に備え付けられた鉄枷をどうにか捻じ曲げようと躍起になっている。その面影に懲罰始めの人を食ったような余裕っぷりはなく、目は血走り、全身に脂汗を滲ませ、見っともなく呻いている。 ――じょっ。 「お゛っ、く、ふうっ……うう……畜生ぉ……漏れちまう……」  何度目かの、股間に熱く滲む感覚があった。鰐人の男が穿かされているグレーのボクサーの股間部分には、言い訳しようもない“チビり”の痕跡が黒々しく小さく、しかし確実に広がりつつあった。その光景を自覚するたびに、同時に避けようもない限界も近づいているということも自覚せざるを得ないのだ。  さて、“このような事態”を誘発するために、エナジードリンクには少量ながら極めて強烈な効果を発揮する利尿剤が混入されていた。つまり、鰐人の男がこのように尿意にもだえ苦しむのは、刑務所にとっては既定の路線ということである。退屈で緩慢な映像と、強烈な生理的欲求への渇望、そして粗相をした後の屈辱と他の囚人や刑務官からの嘲笑の視線、それらを含めて、『特殊更生用映像プログラム』における懲罰は完成するのである。  直接的な暴力を与えられないことで増長するであろう獣人種への懲罰として、より強烈な精神への攻撃を以て代替とする――昨今の世相に伴い、懲罰の意向を変えることを強いられた刑務所の苦心の策は、鰐人の男の反応を見る限り、効果覿面のようである。 ◇ ――さて、今日は州刑法において規定される攻撃行動について、その定義の洗い出しを実際の判決文を交えて考察してみたよ。ライオンくん、どうだった? ――すごくよくわかったよ。危害を加えてはいけないというけど、具体的にどんな行動にどんな罰則が与えられるのかが鮮明になって、とても勉強になった! ――次の章では、各種の犯罪類型について調べていこう。それじゃ、またねー! 「あ゛……っ、お゛お……っ、はーっ……ふ、う゛う゛……ッ」 映像が終わるころには、鰐人の男の精気はすっかり失われていた。もはや人の言葉で悪態をつく余裕もないのか、大きく開かれた口からは呻きとも苦悶ともつかない音階を絞り出し、椅子に深く腰掛けたまま小刻みに震えている。グレーのボクサーパンツの股間部は、ほぼ失禁とみなしても構わないほどの大きさの黒染みが広がっており、まさしく決壊秒読み、といった様相である。むしろ、まだ漏らしていないのが奇跡であると言えよう。 「あっ……ああ゛っ……出る、もれる……はやく゛しろぉ……!」  鰐人の男は叫び、一刻も早く刑務官がやってくるのを祈った。きつく張り詰めて膨らんだ下腹部から見てもわかる通り、男の膀胱は平時の二倍ほどに膨らみ切り、満杯を通り越しつつあった。さながら破裂寸前の風船のように、僅かにでも刺激を与えられればそのまま惨事が巻き起こるだろうことは明らかだ。張り詰めた膀胱に生じる鋭い痛み、このまま破裂するのではないかという恐怖、疲弊しきった思考、全身の気怠さ、様々な要因によって、鰐人の男の精神と肉体はもう限界寸前だった。  そんな男の耳に、こつ、こつと靴音が届く。男にとってそれは福音とも言うべき希望の音色だった。行けども行けども先の見えない地獄の中に、ようやく一本の白い蜘蛛糸が垂らされたのだ。 「失礼した。映像は“二時間半”と伝えていたが、実際は“三時間半”だったようだ」 「し、しょんべん……い、いかせろぉ……!」  開口一番、まるで詫びるような語気ではない訂正の言を持ってきた刑務官に対し、鰐人の男は一切噛み合っていない懇願の言葉を投げかけた。 内腿をがくがくと震わせる鰐人の男の乞うような語気に、刑務官は怪訝そうに眉を顰め、それから僅かに嘲笑するかのような笑みを浮かべた。あれほど舐めた態度だったはずなのに、ほんの数時間のうちに随分と様変わりしたものだ――などと内心で独り言ちるも、いまの鰐人にはその小ばかにしたような気配も届いていないようである。 「小便か」 「たのむ……はやく、もれる、も、すぐ、でちまう……!」 「なら、問題にすべて正解することだな。カリキュラムではこの後に十五秒のトイレ休憩を用意してある」 「なっ……ふ、ふざけんな! おい、これ外せッ! はやく、さっさと――」 「――では、第一問。三年八月十四日のワイルドランド獣人刑務所囚人折檻事件を契機に行われた州刑法改正においては、どのような事項の見直しが行われた?」  鰐人の男の抗議を遮るように、刑務官の冷徹で明瞭な声が響く。一切の情けを持ち合わせない冷たい声音に、鰐人の男は取り付く島が微塵もないことを否応にも理解させられる。すなわち、正解するまで絶対にトイレに行かせることはないのだ、と。 「ちく、しょう……!」  問いに答えられる自信はない。当たり前だ、尿意を堪えることに必死だったために、映像の内容などほとんど視聴してすらいないのだ。いや、そもそも視聴していたとして、複雑な法律に関する専門的な内容を一度ですべて理解することなど誰にだって不可能に決まっている。 「答えられないなら再視聴だが、どうする」 「う、うう……なあ、頼むよ……ションベンぐらい、させてくれてもいいだろ……!」 「――それが回答か?」  ふ、と刑務官の口から息が漏れる。それまで鉄面皮のようであった刑務官の顔に、明確な嘲笑と侮蔑の色が浮かぶ。 「では、再視聴だな。三時間半、オシッコ我慢できるといいな」 茶化すような物言いを置いて、刑務官は部屋から去っていった。その一切取り繕う様子もなくあからさまにコケにするような振る舞いに、鰐人の男は途端に頭に血を登らせ、手の拘束を引きちぎらんという勢いで暴れ出した。 「――ふ、ふっ、ふざけんじゃ、ねえッ! だいたい、なんだよこんな懲罰! わけわかんねえぞ、クソッ! あああっ! 解きやがれ! 俺を開放しろぉ!」  怒りの解放。こんな馬鹿げた懲罰などあっていいはずがない。自分が他の囚人に浴びせた理不尽も忘れ、鰐人の男は自らに降りかかった理不尽に憤る。 「畜生! 畜生畜生畜生ッ! 死ね、お前ら全員ブチ殺してやるッ!」  ぎしぎしと巨躯を揺らし、鰐人の男はなんとか拘束から逃れようと足掻く。しかし、対獣人用にチューニングされた拘束用椅子はビクともしない。しかしなおも鰐人の男は藻掻く。まるで、もう眼前まで迫った己の運命――ひどく臭い立つ、嘲笑と屈辱に塗れたもの――から逃れようとするように。 「あああっ! クソ! 畜生! なんでこんな――っ、あっ……!」  地獄の底より響くような鰐人の絶叫に、ひとつ、生娘の喘ぎのようなか細い音色が混じりこむ。稲妻にでも打たれたかのように、びく、と鰐人は身体を震わせ、そしてそれを皮切りに、垂れ流されていた罵詈雑言の一切が止まる。傍から見て、“何かが起こった”と推察するのは容易だった。 「あっ、かっ……はあっ……!」  ひとつ熱い息を吐いて、鰐人の男は小刻みに身体を震わせる。それと同時に、じゅ、じゅっ、と水が噴き出すくぐもった音が断続的に響き、止まり、また響く。 「はっ、ふんっ……ふーっ……っ、ああ、んが、あ……ッ」  限界は目前だった。鰐人のパンツの内側、性器の収納された肉の割れ目より、臨界点を超えた小便が噴き出し始め、狭い内を瞬く間に満たした。じゅうじゅうと垂れ流される小便によってパンツのグレーの生地のほとんどは黒く濡れ上がり、濡れた生地の密着した局部や臀部、内腿に不快な生温さとむず痒さがほとばしる。はた目から見て、もう“チビり”とすら呼べないほどの惨状となっていた。 「ちく、しょう……」  抑えなければ――という意志とは裏腹に、疲れ果てた括約筋は徐々に脱力していく。  むわりと匂い立ち、部屋中を満たす濃い小便の臭い。こみ上げる焦燥感と、尿道を迸る熱い感覚。 「がっ、あっ……があああああッ!」  ――ぶじゅっ、ぶじょおろろろろろろろろろ……!  一つ咆哮と共に、限界が訪れる。張り詰めていた糸がぷつんと断ち切られたように、鰐人の内側に込められていた最後の力が瞬く間に抜けていき、代わりに股座から叩きつけるような勢いの水音が木霊しはじめる。 (ああ……くそ、おわった……) 男は深く息を吐いて、肉体のうちで最も敏感な割れ目から熱い液体が噴き出していくことで生じる快感に浸りはじめた。ひどく心がくたびれていて、この下腹部を満たす快感のほかに、いまはもう、何も考えられそうにない。 じょば、じょば、と絶え間なく小便が溢れ出て、吸水力の悪い粗悪な生地の限界はすぐに訪れる。下着の外側、冷たい椅子の座面へ小便がにじみ出ていく。それからすぐに、椅子の下にびちゃびちゃと滴る水の音も聞こえてくる。俯く視界の端で、冷たいリノリウムの床に液面が勢いよく広がっていくのが見えた。自分が今小便を漏らしているのだという事実を目の当たりにすると、くたびれていた心がかき乱されるようだった。 (これが……お前らの、やり口かよぉ……) いい年をした大人が、成す術なく小便を漏らさせられる。失禁、の二文字でくくられるこの行為は、存外培われてきたプライドを踏みにじり、凌辱するものだった。 (クソ、最悪だ……きもちわりいし、かゆいし……もう、嫌だ……)  状況は最悪だった。ぐしょ濡れのパンツの生地が身体に張り付いて不快だし、なにより小便の浸った股間や内腿、尻、太腿、それから足先までがむず痒くてむず痒くて仕方ない。息を吸いこめば小便の悪臭がいやというほど鼻先に飛び込んでくるし、小便塗れの身体が異様なほどに効いている空調に冷やされて身体の震えが止まらない。 なおもこんこんと垂れ流される小便。ゆっくりと、次第に下腹部が軽くなっていくのを感じながら、観念したように椅子の背もたれに身を預け、いつの間にか始まっていた“クソ映像”が映し出されているスクリーンを茫然と眺める。 ――結局、形はどうあれ暴力を振るうのは悪いこと、なんだよね。 ――そうだね。だから、暴力に対する処罰はしっかり与えられなくちゃならないんだ。 「あああもう嫌だあ! 俺が悪かったからあ、もう開放してくれよぉ!!!!」  鰐人の男は目尻に涙を浮かべ、喚き散らし、椅子の上で暴れ回る。 しかし、部屋の四方に設置されたスピーカーから、音質の悪い音楽――チープでメルヘンチックな、いうなれば幼児用の知育ビデオのような――が爆音で響いて、その嘆きすらも掻き消されていく。  三時間半の地獄。答えられなければ更にもう一度、もう一度、もう一度。 心をへし折るためだけに仕組まれた無間地獄は、当分終わりそうもなかった。


More Creators