これはある【ひとコマ】。 そんな事があるかもしれない…いや…あったかもしれない…。 そんなキャラクタショーのあるひとコマ。 ・・・ 「やっぱり、中止とかにはなりませんよね??」 私は、かすかな期待を込めて、その日の責任者である、【眞城(ましろ)さん】に質問をした。 「確かに、気温的には、とてもショーが出来る気温ではないけど、クライアントが中止と言わない限りは、やるしかないな」 私の期待を切り捨てるかのように、眞城さんが言った。 「ですよね…やっぱり…」 ここはキャラクターショーの現場で、ステージも屋根のない炎天下。 そして今日の気温は、猛暑日と呼ばれる35℃越え。 ただ普通に過ごしているだけでも、猛烈な暑さにやられてしまいそうだというのに、今から私達は、スーツアクターとして、着ぐるみを着て、ステージに立とうとしているのだ。 普通に考えれば、この気温で着ぐるみに身を包まれるなど、頭がおかしいと思われる行為だ。 しかし、私達はスーツアクターであり、クライアントがお金を払って呼ばれている立場。 クライアントがやるという以上、プロとして仕事をこなさなければならない。 「ふぅ…」 しかも、この気温に脅威を感じているのは、今日のショーの私の配役にもあった。 他のキャストは基本、人型のキャラや、良い者モンスターであるのだが、私は【悪役】モンスターであり、かなり体格のいサルをモチーフにしたモンスター。 この手の衣装は、体のラインはでないものの、その分、分厚く出来ており、衣装の表面は短い毛で覆われている。 そのため、着ぐるみ内の温度は、恐ろしい程に上昇し、それ程気温の高くない現場でも、汗だくになるのだ。 更に性質が悪いのが、この悪役モンスターは、かなりのハイテンションのため、動きがどうしても激しくなるのだ。 普段はこの悪役キャラは男性が演じるのだが、以前の現場で、中身の男性アクターが怪我をしてしまい、急遽、私が演じる事に。 比較的身長のある私なら出来ると言われ、演じたのが運の尽き。 こうして、男性アクターが足りない時に、キャスティングされるようになってしまったのだ。 「【愛華(あいか)ちゃん】大丈夫??」 そう私に声を掛けて来たのは、人間キャラ役の一人である【茉那(まな)ちゃん】だ。 自らが着るべき衣装を前に、少し落ち込んでいる私を見て、心配してくれた。 「け…結構…不安だよ…」 「そうだよね…愛華ちゃんのキャラ、男性陣も殺人的な衣装って…有名じゃん…。終わった後、男性陣も、へばってるし…。それでこの気温は、やばいんじゃない?」 「う…うん…」 前にやった時の屋内現場の時でも、ショー終わりに背中を開けてもらうと、恐ろしい程の熱気が噴き出し、衣装を脱いだ後の、下に着ているインナーの全身タイツはグショグショに濡れていた状況。 それで、この気温…しかも炎天下のステージとなると、最後まで持つか分からないくらいだ。 「肌タイツに服を着てるだけの私達でも、暑くてやばそうなのに…愛華ちゃんの衣装は分厚いし…キャラのテンション高いし…」 とはいうものの、私がこの役をキャスティングされている以上、ショーが始まれば、私がやるしかない。 「まあ…ショーが中止にならないなら、やるしかないし…頑張るよ…」 私は、言葉に力は無いが、決意を口にした。 「私達では、何も助けて上げられないから、頑張ってとしか言えないんだけど…」 「うん、大丈夫、ありがと」 そうは言ったものの、この尋常じゃない気温。 心のどこかでは、ギリギリでも中止になるのではないかという期待が少しだけ残っていた。 しかし、実際には無情なもので、中止の連絡はなく、ショーの開始時間が、どんどんと迫って来た。 30分前になり、各々ドレッシングを開始した。 良いか悪いか、私の衣装は、パーツ数は少ないため、比較的、直ぐに着替えは完了する。 そのため、なるべくギリギリまで衣装を着ずに粘る。 ショー用のインナーの上に、全身タイツを着込む。 人間キャラたちの着替えが進んでいく中、私は全身タイツ姿で、他のキャラ達の着替えを手伝っていた。 (ふぅ…このタイツだけでも暑く感じる…) それはそうだろう。 この気温、普通の人なら、半袖に半ズボン、もしくは、スカートといった、いわゆる軽装なのだ。 この全身タイツを着ている時点で、ナイロン素材ではあるものの、長袖長ズボンを着ているのと同じ状況なのだ。 この時点では、人間キャラとそう変わらない。 人間キャラ達は、肌タイツに身を包まれているが、衣装に関しては普通の服に近い。 二の腕や腿などは、肌タイツ一枚なのだ。 つまり、今の私の二の腕や腿と変わりは無い。 他のモンスターキャラ達は、一体は私と同じような怪獣型ではあるが、その他は比較的通気性はある衣装だ。 すると、私より先に、もう一体の怪獣型キャラの【結菜(ゆいな)ちゃん】がボディを着こんだ。 「うわっ!…あっつ…」 結菜ちゃんのキャラも私と同じように、怪獣型で分厚い衣装。 それでもまだ、足や腕の部分は布一枚になっており、ボディの中も空間がそこそこある。 その衣装でも、着ただけでかなりの暑さを感じるようだ。 (だよね…暑いよね…やっぱり…) そうこうしているうちに、ショー開始の時間が近くなった。 (よし…着るか…) いくらパーツが少ないとはいえ、何かトラブルが起きるといけないので、私もついにドレッシングを開始する事にした。 私の目の前には、背中をパックリと開けた、ごつい筋肉質のサルのような衣装の姿がある。 【ゴクッ…】 今から、その割れ目に、自らの身を投じなければならないと思うと、不安と緊張が訪れる。 何回か着ている衣装…何度もその割れ目に体を入れて来た。 しかし、今日の気温を考えると、その割れ目に恐怖すら感じてしまう。 普段のショーですら、頭が朦朧とするくらいなのに、この気温…この後の自らの状況が思い描けない。 しかし、ショータイム開始までの時間は刻々と迫ってきている。 (…よし…) 不安に駆られながらも、私はその衣装の背中の割れ目に足を通した。 両足がサルのような着ぐるみの足に収まっていく。 (うぅ…) 私の細い足とは、全く逆のかなり太い足。 そのかなり太い足は、分厚いスポンジで出来ており、見た目の太さとは裏腹に、私の足を入れると、ほぼ空間など無い。 この分厚さが故、足を動かすだけでも、かなりのエネルギーを消費する。 足が完全に着ぐるみの中に収まると、既に足が熱気に包まれているのが感じられる。 両足が入るのと同時に、腰付近までは着ぐるみの中へと入り込む。 次は私の前に垂れ下がるボディに両腕と体を入れ込む。 【ゴクッ…】 両足を突っ込んだだけで、これだけの暑さを感じるというのに、これから体もそこに入れ込み、全身を包まれようとしているのだ。 その暑さの想像が、私の頭の中を過っていく。 (よし…着よう…) 意を決し、両腕を着ぐるみの中へと通していった。 両腕もまた、筋肉質の太い腕。 それに見合わず、中はそれ程の空間は無い。 つまり、両腕もまた、分厚いスポンジのようなもので出来ており、両足のように動かすだけで一苦労なのだ。 手先は切れていて、手首から先は外に出て、後で手袋を嵌めるようになっている。 両手を完全に通すのと同時に、私の体は着ぐるみの中にすっぽりと収まった。 「愛華ちゃん、背中閉めるよ」 茉那ちゃんが、完全に人間キャラになった状態で、マスクの中から、私に声を掛けてくれた。 「よろしく~」 【ジーーーーー】 すると、茉那ちゃんがファスナーを閉め始めてくれた。 ファスナーが上がってくると、一気に体が着ぐるみが体のほうへと纏わりつき、包まれている感が上がってくる。 【ジーーーー】 首元までファスナーが閉められると、完全にフカフカの衣装に体が包まれ切った。 ボディも手足同様、ごつい体格の割に、中には空間はあまり無い。 つまり、ボディもかなり厚い作りになっているという事だ。 (ふぅ…やっぱり…暑い…な…それに…相変わらず重いな…) まだ、マスクも被っていない、ステージで動いた訳でもない。 しかし、体が衣装に包まれた時点で、私を包み込む暑さが体中から感じられ始めた。 ファスナーは私の後頭部まで伸びており、それを上まで上げ切ると、私の首は、厚めの毛の生えた着ぐるみの素材に包まれる。 まるでマフラーをしているかのような感じだ。 更に、この着ぐるみが分厚く出来ているせいで、全身にかなりの重量感を感じる。 まるで、全身に重りを付けられているような感覚だ。 この重さも、中身が男性なら、そこまで感じないのかもしれないが、女性の私にはやはり重く感じる。 (次は…マスクか…) 私はマスクを手に取り、自らの頭の上へと持ち上げた。 そして、そのマスクを自らの頭部へと被せる。 【スポッ】 マスクが私の頭部を包み込み、視界が目のプラスチックの部分と口の斜幕からだけとなる。 首とマスクの隙間に手を思いっきり突っ込んで、マスクを頭部に固定する、マジックテープを留める。 そして、マスクの固定感を確認するために頭を左右上下に軽く振ってみる。 (よし…大丈夫だ…) マスクの中は、戦隊や、魔法少女ものと違い、比較的空いた空間はある。 ただ、マスクの頭部を入れ込む穴が比較的小さいのと、ボディのほうから繋がる、首を包み込む衣装部分が厚く出来ているせいか、首元の隙間はあまりない。 隙間が無い分、お客さんからその隙間を覗かれたりはしにくいのだが、裏を返すと、そこからの空気の出入りが少ないため、マスク内の空気は籠るのだ。 「愛華ちゃん、マスク大丈夫??」 「うん、オッケー」 「じゃ、手袋はめるね」 「よろしく」 お互い、もう着ぐるみのマスクをしているので、籠った声の会話が繰り広げられる。 そして、私は自らの手を着ぐるみの中に入れ、茉那ちゃんのほうに両手を差し出した。 「よいっしょ…っと…」 差し出してくれた手袋に両手を突っ込み、完全に奥まで入れ込む。 「手、入った??」 「うん」 「じゃあ留めるね」 そして、茉那ちゃんが、私の手袋が外れないように、手首部分にある留め具を付けてくれた。 手首の留め具は、自らでは付ける事は出来ない。 それは、裏を返すと、自ら外す事は出来ないという事。 つまり、私は、茉那ちゃんにより、この留め具を付けてもらった時点で、この衣装を自らの意志で脱ぐことは出来なくなったという事だ。 「愛華ちゃん、大丈夫??問題ない??」 「うん…大丈夫」 お互い、完成した着ぐるみの状態で、会話をする。 (あぁ…ついに…着てしまった…。もう…やるしかない…) 完全にドレッシングが終わり、後はショーが始まるのを待つのみ。 私を包み込んだ衣装は、もう既に、私の全身を熱し始めていた。 動いてもいないのに、額から汗が滴り落ちてくるのを感じる。 その汗が、じんわりと目に入り込んで来て、少し沁みるような感覚がある。 この感じは、通常なら、ショーの最中に感じるもの。 それが、ドレッシングが終わった時点で感じられるというのが恐ろしい。 そして、この衣装の重量感。 全身から重みを感じ、ただ立っているだけでも、エネルギーを消費する。 この全体の重さ…手や足を動かすのに使う力…。 どう考えても、この衣装は男性が扱う衣装の造りだ。 いくら多少身長があるからと言って、女性である私の非力さでは、扱い切れないものだ。 (暑い…やっぱり…この衣装…暑いよ…) ただ待っているだけ、動いている訳ではないのに、体が熱くなっているのが分かる。 顔も火照りはじめ、こうしているだけで呼吸が荒くなり始めていた。 ギリギリでドレッシングしたのだから、ショーが始まるまで数分のはず。 しかし、着ぐるみに完全に身を包まれ、かなりの暑さに耐えている私には、だいぶ長く感じられる。 (はぁ…はぁ…まだ…始まらないのかな…) ショーが始まらなければ、終わりを迎える事は無い。 ショーが終わらなければ、この暑さから逃れる事は出来ない。 しかし、本当にショーが始まって、ステージで動き回ったら、どうなってしまうのだろう…その不安もよぎる。 とは言うものの、私に選択権はない。 ショーが始まるのを待ち、始まれば、流れに乗るしかない。 録音された音源の進行と共に、動き演じるしかないのだ。 そして、ついにショータイムを迎えた。 「じゃあ、みんなよろしくね!!」 そう言って、司会のお姉さんが、ステージ上へと飛び出して行った。 この司会のお姉さんが喋っている最中も、私達は待ちとなる。 いつもより、司会のお姉さんの喋りが長く感じる。 決してそんな事は無いのだろうが、今の私が既に追い込まれた状況にいるから、そう感じるのだろう。 そして、暫くお姉さんが喋った後に、ついにショーの本編が始まった。 (よし!!やるしかない!!) しかも、ショーの本編は、悪役の私の登場からである。 登場のきっかけの音が鳴り、私はステージ上へと飛び出して行った。 ステージまで向かう、ちょっとの距離。 しかし、このサルのような衣装は、恐ろしく分厚く出来ているため、足を動かして進むだけでも、かなりの労力だ。 このちょっとの距離だけでも、進むのが大変なのだ。 しかし、最初の登場はインパクトが必要なので、懸命に足を動かし、走ってステージ上まで上がって行った。 【いえぇぇぇぇい!!】 ハイテンションなキャラクター設定のため、大げさに動きながらステージ場で演じる。 (うぅ…マジで…この炎天下のステージ…暑い…) ステージに上がると、ステージ上が太陽光で、かなり熱せられているのが分かる。 こんな分厚い着ぐるみに身を包まれているのだが、そのステージ表面から、ムワッと立ち上ってくる熱気は、体中から、そして、マスクの中に取り込む外の空気から感じる。 (…これ…キャラクターショー…やっていい状況じゃないって…) そう思いながらも、もう始まってしまったショーの音源は止まらないので、声に合わせて動くしかない。 そして、この殺人的なサルの衣装、それに被せるような、ハイテンションのキャラ設定。 テンションが高いがうえ、動きを抑える訳にもいかない。 すぐに私の体が悲鳴を上げ始める。 (はぁっ!!はぁっ!!はぁっ!!苦しい!!暑い!!暑すぎる!!) 分厚いボディの衣装は、私の体温を完全に内部に閉じ込め、着ぐるみの中は暑さを増すばかり。 非力な女性の私が、この衣装を着て演じるには、男性よりも負荷は大きい。 動けば動くほどに、体温は上昇し、呼吸も荒くなる。 (はぁっ!!はぁっ!!はぁっ!!息が!!息が!!もたない!!) 首元の隙間が少ないため、マスクの中に入ってくる空気は、マスクに空いた小さな穴からのみ。 そこから入ってくる空気では、私の荒くなった呼吸に追い付くことが出来ない。 そして、そこから入ってくる空気も、清々しい空気ではなく、外気温により熱せられた、熱風じみたもの。 (苦しい!!苦しい!!息が!!息が!!出来ない!!) あまりの苦しさに、マスクを剥ぎ取ってしまいたいくらいだ。 しかし、ここはステージ上。 私は今、サルのような悪役の【キャラクター】なのだ。 どんな状況であっても、マスクを取る事など、絶対に有り得ない。 そして、一つのシーンが終わり、控えのテントへとハケて行った。 (テント…テント…) ステージ上では、気力でハイテンションキャラを演じているが、客目につかなくなった瞬間に、体が動かなくなる。 お客から見えなくなった所から、テントの中まで、フラフラとした足取りで、ハケて行った。 なんとか控えのテントへと辿り着いた。 (はぁっ!!はぁっ!!はぁっ!!苦しい!!暑い!!) 一つのシーンが終わり、一旦、控えにハケたとしても、すぐに次の出番がやってくる。 客目に付かない場所とはいえ、マスクを一回外す余裕などない。 次の出番がくるまで、完全に着ぐるみに身を包まれたまま、待つしかないのだ。 (暑い…暑い…暑い…ホントに…死んじゃう…これ…) 体中が熱くなっているのが分かる。 手の指先や足先、頭のてっぺんまで、恐ろしい程の暑さになっている。 あまりの暑さに、視線が泳ぎ始めている感じがある。 (暑い…この衣装…人が…着る衣装じゃないよ…ホントに…死んじゃう…) この衣装を着ている限り、控えのテントに戻ったとしても、状況が良くなることは無い。 着ているだけで、どんどんと内部の暑さを増す衣装なのだ。 こうして、控えているだけでも、私を追い込んでいく。 (…もう…ムリ…ホントに…死んじゃう…苦しい…苦しい…苦しい…苦しい…はぁはぁはぁ…むりぃぃぃぃぃ!!) あまりの暑さと苦しさに、少しパニックになり、マスクを剥ぎ取ろうと、両手でマスクを掴んだ。 (んぅっ!!) しかし、私の両手は、大きな手、太い指のサルの手袋に包まれている。 その手で、マスクを外すためのマジックテープを取る事など出来ない。 マスクを思い切り上に引っ張った所で、首に止めたマジックテープが、首に食い込むだけ。 結局、今の私に、衣装を脱ぐことはおろか、自らこのマスクを取る事も出来ないのだ。 (はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…お…落ち着いて…はぁ…はぁ…はぁ…) 脱ぐ事が出来ないのを再認識し、少しパニックになった自分を落ち着かせる。 脱げない以上、なんとか乗り切るしかないのだ。 (暑い…苦しい…でも…やるしか…ない…) 周りのキャスト達も、私がこんな事になっているとは、気付いてもいないだろう。 皆、自分たちの事で必死なのだから。 なんとか、心を落ち着かせ、呼吸を少しでも整える。 そうこうしているうちに、直ぐにまた出番となり、私はステージへと出て行った。 (…暑い…苦しい…暑い…暑い…暑い…苦しい…) もう頭の中は、それしか考える事が出来なくなっていた。 ただでさえ重量感のある衣装が、恐ろしく重く感じる。 手足を動かすのさえ、酷と感じる程、重く私にのしかかる。 照り付ける太陽。 私を包み込む、分厚い衣装。 アニメもの特有の空気穴の少なさ。 無駄にテンションの高いキャラ設定。 体中から汗が噴き出し、体の隅から隅まで、恐ろしい程の暑さに包まれる。 もう既に、まともに思考が働いていない。 頭で考えているのではなく、本能がショー音源に合わせて動いているかのようだ。 (あ…ぁ…前に…壁が…ぁ…あれ…私…どっち…向いて…る…の…) もう、自分が何をしているのかも分からないようになっていた。 お客さんの目におかしく映っているかもしれない。 しかし、今の私にそこまで思考を回す余裕はない。 (…あ…れ…私…ここで…いいんだっけ…) 視線が定まらず、除き穴から見える景色が認識できない。 そして、暫くしたのちに、悪役…私の演じるキャラが帰るきっかけのセリフが遠くで聞こえた。 (…お…終わり…な…の…) 自然と控えのテントへと戻っていく私の体。 もう、心のどこかで覚えている、音と感覚で、終わりと感じ、帰っている感じだ。 ヨロヨロとしながら、なんとか控えのテントの中に入り、完全にお客の目につかない所まで入り込んだ。 「愛華!?大丈夫か!!直ぐに脱がすから!!」 スタッフの眞城さんが、私のところへ駆け寄ってきた。 しかし、その質問に声を出して答える余力も、私には無かった。 【バタン!】 客目に付かない所まで来たとたんに、体の力が入らなくなり、そのまま床に倒れ込んでしまった。 (あ…ここ…テ…テント…中…) 体中の力が入らない。 体を起こす事はおろか、首を上げる事も、腕を上げる事も出来ない。 私を襲い続けた暑さ、そして、酸欠から、私の体は限界を迎えていた。 思考も朧となり、まともな思考が出来ていない。 すると、横たわる私から、衣装が剥ぎ取られていった。 手袋が外され、首元に手を突っ込まれたと思うと、マスクを止めていたマジックテープが外された。 【ズポッ】 そして、ついに私の頭部からサルの悪役のマスクが外された。 (…ぁ…く…空気…が…) 朧げな思考の中、マスク内に籠った空気ではない、新鮮な空気に微かながら反応する。 【ジーーーーー】 そして、背中のファスナーが開けられた。 普段なら、背中を開けた瞬間、ようやく触れる外気に、解放された感が漂うが、今の私にはそんな感覚すらなかった。 体中が熱気をおび続け、背中のファスナーが開いても、あまり状況は変わらなかったのだ。 「愛華!悪い!手を突っ込むぞ!!」 そう言った眞城さんは、着ぐるみのボディに手を突っ込み、汗でグショグショになった全身タイツに包まれた私の体を掴んだ。 普段なら、【キャァ!!】とでも、反応してしまいそうな所だが、今の私に、そこに思考を向ける余裕はない。 自らの汗でグショグショになったタイツを触られるだけでも好ましくない事。 更には、そのグショグショに濡れたタイツに包まれた、自らの体を触られているのだ。 そんな事が起きていても、それに対して、私は抵抗も、嫌悪感も何も抱かなかった。 本当に思考が回っていないのだ。 【ベチャ】 そして、私は着ぐるみの中から引きずり出され、床に力なく転がった。 あまりの汗量に、私が転がった床が、一瞬にしてビショビショになる。 「愛華!!大丈夫か!?」 再び、眞城さんが、私にそう質問した。 返答をしたかったが、声が出ない。 (…は…はやく…着替えて…ス…スタッフに…でない…と…) 普段なら、悪役である私は、急いでジャージに着替え、ショーの後の握手会のスタッフとして出ていかなければならない。 こんな思考が朧な状態であっても、その普段からの流れと、使命感が本能的に、私にそう考えさせる。 しかし、その考えとは裏腹に、体が全く動かない。 体を起こそうにも、まるで力が入らない。 「愛華!握手会は出なくていいから、そこで休んでろ!!」 (…そ…そういう…わけには…) 休んでいろと言われても、役割がある以上、そんな訳にもいかない。 そうこうしているうちに、ショーの本編が終わり、人間キャラたちがテントに戻って来た。 そうだ…他のキャストは、まだこれから着ぐるみを着たまま、握手会に出なければならない。 私だけが、こんな所で休んでいる訳にはいかない。 しかし体は動かない…。 未だ、体全体が恐ろしい程に熱気を帯びている。 着ぐるみを脱いだ今も、私の体中から汗が噴き出し続けている。 「…よ……そろ……握手…じ…る………がん………」 眞城さんの声が途切れ途切れに聞こえて来た。 心の中では、立ち上がって握手会のスタッフに出なければならない、そう思っているのに、体は動かないし、周囲の音も、はっきり聞こえなくなって来た。 (…あ…あれ……音が……き…きこえ…ない………) 段々と、私の周囲を包む音が小さくなってきて、静けさが包み込んできた。 ぼんやりとする視界に映る、他のキャスト達は再びテントから出ていく。 しかし、その動きから出る音も、スタッフの声も、何も聞こえない。 次第に、その視界も全く焦点が合わなくなり、まるで認識が出来なくなって行った。 (…ぁ……も…ぅ……………) そして、私はそのまま意識を手放したのだった。 テントの外では握手会が繰り広げられる中、テント内に私は全身タイツに包まれたまま、一人ただ力なく横たわっているのだった。 私から流れ出る汗が、私の周りに水溜りを作っていた。 実際のところ、ショーの途中からの記憶は全く無かった。 中盤から、自分が何をしていたのか?どうやって帰ったのか?それすらも覚えていない。 しかし、まわりのキャストの話では、それなりに、打合せ通りに動いていたらしい。 結論、炎天下で、こんな衣装は無謀だし、何より、女性がやるキャラ設定ではないと思う。 しかし、私は再び、このキャラにキャスティングされるのだった…。 -------------------------END------------------------------------------