SamuZai
yukikazefactory
yukikazefactory

fanbox


第1章 第十六話

第1章「目覚めの草原」 第16話「旅のはじまり、風を背にして」 ──草の音が、静かに揺れていた。 夜が明けきらぬ空の下、焚き火の余熱がまだわずかに残っている。 灰色に冷えた大地の上で、ドロシーは目を覚ました。 火種の明滅は穏やかで、体の奥にあった熱も、だいぶ引いている。 頭の中もずいぶんとすっきりしていた。 ラセルの上着が、自分の体にかけられていた。 少し大きくて、ごわつくけれど──温かい。 右手は、やはりまだ動かない。 けれど、そのことに昨日ほどの不安はなかった。 「……おはよう」 かすれた声でつぶやくと、すぐそばから応える声がした。 「起きたか、ドロシーちゃん。熱は?」 「だいぶ、下がったみたい」 ラセルは昨夜と同じように、静かな笑みを浮かべていた。 火の消えた焚き火を崩しながら、湯を沸かしているらしかった。 「……今日は、どこまで行くの?」 ドロシーの問いに、ラセルは少し顎に手を添えて考えた。 「決まっとらん。けど、風の道を避けつつ丘の向こう側まで出ようかと思っとる。 バステの遺構の南側は人の通りもあるし、安全な場所がいくつかある」 「そっか……」 ドロシーは、火種を包み込むように左手で触れた。 「……トカゲの子が教えてくれたのも、あの“遺構”のことだったんだよね」 「せや。地図に描かれとったやつな。 けど、その先については話されとらんかったやろ?」 「……うん」 しばらく沈黙があったのち、ドロシーはぽつりと告げた。 「……だったら、ぼく……ラセルについていっても、いい?」 ラセルは火の面倒を見ながら、ゆっくりと顔を向ける。 「もちろんや。どこまででも連れてったる。 “トト”の手がかりも、きっと何か見つかるやろ」 ドロシーはその言葉に、小さく頷いた。 「ありがとう……」 右手はまだ、動かない。 それでも、自分が“行きたい”と思える道がある。 それが、今のドロシーにとっては十分だった。 草原を抜ける道は、想像以上に険しかった。 夜露で滑りやすくなった丘の斜面、足元をすくうような柔らかい草の根。 陽は昇っても、風は止まず、ときおり身体ごと押し戻されそうになる。 ドロシーはそのたび、ラセルの肩に手をかけて、呼吸を整えていた。 「……はあ……まだ、こんなに草原が広かったんだね」 「せやな。空は広いけど、足場は狭い。 特に、いまの君の足やと、こっちが見てへん隙に転びかねん」 「……ちゃんと気をつけるよ。 でも……こうして君がいると、安心する」 それは本心だった。 右手が使えないということは、 「体を支える手が一本分足りない」だけではない。 荷物が持てない。バランスがとれない。ちょっとした起伏が障害になる。 そんな状態で、ラセルは一言も責めなかった。 一度も「無理をするな」なんて突き放し方をせず、 ただ傍に立ち、自然な流れで補ってくれた。 ──その姿が、どこか夢の中の“魔導師”に重なって見えた。 丘を越えると、小さな林があった。 その中で、ラセルが木の根元に腰を下ろし、手招きする。 「ちょっと休憩しよか。地図を見ると、村までは──いや、いや、今日は“定まった村”はないんやったな」 「……うん。でも、とりあえず丘の先まで行ってみよう?」 「そうしよ」 腰を下ろした瞬間、ふわりと草の香りがした。 朝露の残り香と、ラセルの汗の匂いと、火種の微かなぬくもり。 「はい、これ。干した根っこやけど、噛むと口が潤うで」 差し出された小さな布包みの中には、刻んだ薬草の茎。 ドロシーは左手で一片取り、そっと口に含んだ。 「……ちょっと、苦いけど……すっきりする味」 「昔の旅人は、こういうのだけで半日歩いたらしいで」 ふたりの間に沈黙が落ちた。けれど、それは気まずさではなかった。 風が、木の葉を揺らす音だけが耳に心地よい。 「……ラセル」 「ん?」 「……ぼく、今こうして旅してるのが、ちょっと不思議に感じるときがある。 夢の中みたいに、どこか現実じゃないような── でも、君とこうしてると、なんか……現実に引き戻される」 その言葉を受けて、ラセルは少しだけ姿勢を直し、 ドロシーの肩のあたりにそっと手を添えた。 「現実ってのは、風みたいに揺れるもんや。 名前が残っとる限り、今ここにおるのは確かやで」 「……うん」 その手の温もりが、じわりと染み込んでくる。 ドロシーはふと、そのままラセルの胸元に身体を預けた。 昨夜と同じように──けれど、今度は自分から。 ラセルは何も言わず、すぐにその肩を軽く抱いた。 「……まだ、右手が動かないのがちょっと……悔しい」 「ええよ。動かんでも、感じられるなら、それで十分や」 ラセルの声は低く、静かで、どこか遠くを見るようだった。 そのまま、抱く腕にほんの少しだけ力がこもった。 ──その腕の強さに、ドロシーは軽く震えた。 風が止んだ。音がすべて、遠のいたような気がした。 「……ラセル」 「……ん」 「……ありがとう。ほんとに……」 言葉じゃ足りない。 けれど、言わなきゃ、なにも伝わらない気がした。 だから、代わりに──そっと額をラセルの首筋にあずける。 その仕草に、ラセルの呼吸がほんの少しだけ乱れた。 ──一線を越えるには、まだ早い。 けれど、気持ちは確かにそこへ向かっている。 風がまた、そっと吹いた。 ふたりの影が重なり、ゆっくりと揺れた。 《第16話・完》


More Creators