悪魔の追想 終 前篇
Added 2019-05-15 13:54:39 +0000 UTC2019年7月22日
試験期間の真っ只中にあるというのに、その日は一日中、大学にいる間も、街に出ている時も、黒田圭輔の心は此処に在らずの状態にあった。
特に今日は、午前中には微積分とフランス語、午後には生化学と薬理学の計4科目の試験が重なっている、彼にとっても彼の同期達にとってもハードなスケジュールが組まれている厄日でもあった。
午後。
最後の試験の解答欄を持ち時間の半分以下で全て埋め、見直しも済ませた圭輔は、未だ熱心にカリカリと手を動かし続ける同期達を尻目にさっさと退室してしまった。
全てを終えて、一人赤門をくぐってしまうと、その頃には彼の頭からは試験に関する事など跡形も無く消え去っていた。
勉強やテストは別に心でやるものではないとはいえ、今日に限らず常日頃から、彼にとっての大学生活というものはそんな風に、極めて淡泊なものだった。
本当の事を言えば、圭輔は別段どうしても大学に行きたかったというわけでは無かった。
単に上京の口実にさえなれば、進学でも就職でもどちらでも良かったのである。
勉強なんて、しようと思えばどこでだってどうやったって出来る。
ただ大学生になるために大学に行くくらいなら、もっと他の事に手間と時間を使いたい。お金を稼ぐ方法だって、いくらでも思いつく。
だが、当時の自分の口からそんな胸の内を聞いた担任教師から泣いて縋られ、土下座され、もういい歳をこいた壮年男性に公衆の面前でそこまでされれば、圭輔も心変わりせざるを得なかった。
街に出て、本屋やカフェなどで適当に時間をつぶした後は自宅最寄りのスーパーで日用品や食材などを買い物し、全てを終えてアパートの自宅に帰宅する頃には日はとっぷりと暮れていた。
実家の自室とほとんど変わるところの無い質素かつ殺風景な部屋の中、軽く食事を済ませた後は一人、無言で雑事を片付けていた。
確かに、部屋の中こそいつものように静寂に満ちてはいたが、その間も圭輔の内心はそわそわと落ち着かなかった。
今日は久々に彼の親友、兼、恋人である姫原智希が自宅に泊まりにやってくる日だった。
彼の顔を写真などではなく直に目にすることが出来るのは、今日で実に3週間ぶりの事だった。
別に仲違いをしていたわけではない。
圭輔が試験期間なら、同じく大学生である智希だって似たような時期に試験期間を迎えてもおかしくはなかった。
試験があるからしばらく会えない、という智希に圭輔も一度は食い下がった。
試験勉強なら俺が見てあげるのに。
同じ大学でもない、同じ学部ですらない上に、自分も試験期間に入ろうという圭輔のそんな言葉にも、智希は慣れた調子で笑って流した。
多分一緒に居たら、嬉しくって勉強になんてならないと思うから。
そう言って照れてはにかむ恋人の、なんともいじらしい返事を前に、圭輔の心はみるみるふやけて、溶けてしまった。
その代わり、会えるようになったら真っ先に傍に行きたい。
そう願いながら自身の試験期間をぬるま湯に浮かぶような心持ちで過ごしつつ、ただひたすら時が過ぎるのだけを待ち続けていた。
そして、とうとう今日この日を迎えたのである。
ただ、残念なことに智希の試験最終日である今日は、彼はサークルの先輩達に誘われて飲み会に行く予定を作っていた。
その事を聞いた瞬間、圭輔は一抹の寂しさを感じた。
まるで、会いたいのは自分だけのようだ、と。
そこを、智希には智希の友人関係や人づきあいというものがあるだろう、とすぐさま考え直して彼との再会を大人しく待つことにしたのだった。
思えば、智希と会えない日が何日も続くなんて、中高時代は想像すらしたことが無かった。
あの頃は2人、毎日顔を合わせるのが当たり前で、当然だった。
けれど、どちらかというと今のこの環境の方が一般的、世間的に見れば普通であるとも言える。
長い人生の内、たった数年しかないあの時代の方が、きっと自分達にとって特別な日々だったのだ。
自分の知らない智希の世界が知らないうちに少しずつずつ広がっている。
その事を所々で肌で感じるにつけ、圭輔は何か落ち着かない気持ちを胸のどこかで覚えるようになっていた。
───
飲み会は19時から始まると言っていたから、終わるのは21時かそれ以降といったところだろう。
街からここまで電車で数十分かかるとして、ここにやってくるのは深夜になるのは間違いない。
今日はあまりじっくりとしたコミュニケーションやスキンシップは取れないだろうな、と肩を竦めつつ智希の分の枕や、明日の着替えなどを用意し、酒を煽って帰ってくる彼の為にしじみの味噌汁など作って過ごした。
智希も昔から料理は割と得意な方だが、大学進学から料理を始めたというのに手際は今やすっかり圭輔の方が上だ。
調理の後片付けを済ませた後は、一人椅子に座って休憩をしつつ、智希に会えるのをただ只管待ち続けた。
彼には珍しくただただボーっとしていると、窓際付近にある本棚に置かれた、白枠のフォトフレームが目に留まった。
それは只のフォトフレームではなく、パソコンやデジカメなどと繋いで撮影した画像を直接取り込むことで、1台のフォトフレームでいくつもの画像を鑑賞できるようになる、デジタルフォトフレームだった。
質素に徹した彼の部屋の中で異彩を放っている、遊び心に富んだそのアイテムは、圭輔が自分で購入したものでは勿論ない。
圭輔が楽しい思い出をいっぱい詰め込めますように、とそのフォトフレームは以前、只の友人だった頃の智希がプレゼントしてくれたものだった。
あれからもう数年の月日が流れ、今では沢山の画像が取り込まれているが、その液晶が映し出す数々の思い出は、その殆どが智希に関わるものばかりだった。
中学時代、まだ一緒にバスケ部に居た頃に並んで撮ったユニフォームの2人。
学園祭を一緒に回った時、智希や他の級友達と一緒に撮った写真。
クリスマスパーティをした時に撮った、智希のご機嫌な笑顔のアップ。
高校の入学式の時。揃ってまだ慣れない制服姿で、肩を並べて撮った一枚。
2人で一緒に卒業旅行に行った時の、旅先での思い出の籠ったワンショット。
目を覚ました朝、大学から帰ってきた日暮れ時にふと目に入るそこに映る数々の思い出達に、いつだって気持ちが和み、癒された。
智希に言われた通り、楽しい思い出をいっぱい詰め込んだそのフォトフレームは、今や圭輔にとって大事な宝物の1つだ。
それは間違いなかった。
けれど、今日のように深夜に一人でいる時。
その時の体調などにもよるが、そんな大切な思い出達を目にした時、圭輔は不意に、予想外の感傷に襲われることがあった。
その理由は様々だったが、例えば、かつての智希が満面の笑みを浮かべているワンショット。
中1か、中2か、智希が自分の事を苗字の黒田ではなく「圭輔」と名前で呼んでくれるようになった頃、確か自分が撮ってあげた写真だと思う。
あの頃の智希といえば、まだ初めて出会った頃と寸分違わない、ちっちゃくって幼い、中学生にはとても見えない「可愛い」男の子だった。
初めて彼の姿を目にした時の衝撃を、圭輔は今でも昨日の事のように思い出せる。
そんな彼が初めて自分に笑顔を見せてくれた、あの時の感激も。
智希が一緒に過ごしてくれるようになって、彼の事を知れば知るほど、圭輔はどんどん智希の事を好きになった。
最初に出会った時の一目惚れに加え、圭輔は二度、彼に恋をした。
二人で一緒に大人になろう、と駆け抜けるように毎日を過ごし、あれからもう7年近くが経った。
色々な事があった。
人生の中で一番濃密と言っても良い青春の時間を智希と共に過ごし、今でも彼とはお互いに一番近くにいるといっていい関係にある。
とても幸せだ。圭輔は、今もそう思って毎日を生きている。
そんな中、思いがけず目に入ったフレームの中であの頃の、昔の智希と再会した時、圭輔はなんだか奇妙な寂しさと胸苦しさを覚えることがあった。
再びフレームを見やると、その中でやんちゃな笑顔を浮かべているかつての智希の顔は、やはり出会った頃と変わらない。
あの子はただただ、まだ何も知らない無邪気な子供で、とても愛くるしくて。
そんなあの子に、もう一度会いに行きたかった。
会ってもう一度あの子の、あの声が聞きたい。
もう一度あの日に帰って、青空の下、二人並んであの頃のように話がしたい。
あの頃の、まだ未熟だった自分には伝える事が出来なかった気持ちを、今の自分の言葉であの時のあの子に伝えたかった。
もう一度、会いたかった。
もう一度。
もう一度だけ。
不意に湧き起こるそんな衝動が胸から頭へと駆け抜けてきて、たまらなくなった。
勿論、それらは決して叶うことのない願いだ。
だってかつてのあの日々を一緒に過ごした、大好きだった可愛いあの子は、もうこの世のどこにもいない。
それは、今の自分がもうかつての自分とは別人なのと同じだ。
そんな事は頭では分かっていても、どうしようもなかった。
おかしな話だ。
大好きな可愛いあの子なら今も自分の親友、いや、今や親友以上の関係にあるというのに。
今でも智希は自分の傍にいて、沢山の幸せをくれている。
今が怖いくらい幸せだからこそ、その身に余る幸せを不安に思う心が、無意識にそこから不幸を見出そうとしているのかもしれない。
くるくると沢山の思い出を次々に浮かべていくフォトフレーム。
人間は、命の尽きる時にそれまでの人生の模様が次々と脳裏に浮かんでくるという。
よく走馬燈に例えられるその現象に、見ようによってはよく似ている。
そのそこはかとなく物悲しい雰囲気が、あるいは自分の心に予想外の効果を与えているのかもしれない。
圭輔はうっすらとそんな風に自分を分析していた。
一度にたくさんの画像を楽しめると思ってスライド表示にしていたが、しばらくは1枚だけの固定表示に変えてもいいかもしれない。普通の、ただのフォトフレームのように。
相変わらず静寂の染み入る一人の夜長を、そんな事を考えながら圭輔は過ごしていた。