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note試みはじめ


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noteを試みはじめる。試みつづけられるのか、あるいは試み終わるのか。

いたずらに字を配置することだけを目的としたこのブログではあったが、やがて破廉恥にもただただ長大に字を並べたいといった卑俗な欲求につよく囚われ始めている自覚の念も兆す。

したがってもう幾ばくかカジュアルに字を並べられる場所づくりとしてnoteを試みた次第。このブログと平行していく心算。



note.。ゲーム作品の感想などを機に記事を閲覧することがまれにあって、全体として想像以上にSNS然としている様子で勝手がよくわからない。感覚だけでいうとnote構文とでもいえばよいのか、この場所のみで発生している普遍的な記事の構成やノリがあるように捉えられると思った。

語りかけるような意識的な文体や、機能で章立てを施したりあんばいよく字体を強調したりなどの工夫にみなぎってそれは日記の形態に留まらずまさに記事の姿形。凛として記事。あらん限りの記事。国境のトンネルをぬけるとそこにあったのは記事。

自分はそういった空気をよく理解しないまま、独りよがりな、日記にも数等劣る、字並べを投擲する所存なのだが大丈夫な所存なのだろうか。



絵。久しぶりに描いた。iPadにはしこたまの埃がかぶっていた。

とりあえず手癖で筆を動かしていくところから始めたのだけど、そうすると対象へのシルエットの解釈があまりにも直感だよりで偏見的ですらあると思った。


文章が字並べなら絵は記号並べだなと思った。字も記号だと思うが。

他者への共感や意思疎通を主眼に据える場合はそういうわけにはいかないであろうが、趣味として行われる自分勝手な文も絵も結局のところ◯△▢といった記号群を自身の気持ちのよいままに配置してその配置という行動そのもののもつ原始的な快楽を満たしているのだと思える。

ろくろく言語も成立してない時代にあってもホモサピエンスたちはおそらく石なり木の枝なりの配置にいそしんで楽しんでいたのではないだろうか。

おはじきや積み木などをはじめとした伝統の知育玩具が示唆するように配置という行いは原始的な根本的な知的遊戯なのだろうと推する。

一方人間である以上、形の配列に対し完全な意味からの脱却はどだい望むことも不可能に思える。幼児ですら積み木の四角や三角にも恣意的かつ普遍的な印象や属性を見出すだろう(ブーバキキ的な認知の話)。ホモサピもすぐに形や記号に意味を求めて配置にも意味を帯びさせて、じきに石並べが宗教儀礼としてさかんに運用されだすのだろう。

それがただちに悪いとは言わないが人間は性急に意味を求めすぎる癖があるように思える。意味だけで世界を解釈することに糊着しているように思える。



子供の頃は漫画家が描くような奥行きのある、物語を感じる一枚絵に素直に憧れたものだが、大人になってしまうと自身で一枚絵を描く分にはかえって物語やら文脈やらあらゆる構造から逃れたいという抵抗の念が肥大化していくように感じる。

自分は漫画という手法で物語ばかりを描いてきて、ネット上ですらも呟きなり日記なりで自己を情報化して世界に投げかけて、そのうえでなおも一点の絵にまで物語やら意味やらを持ち込むなんてうんざりしないでもない。

まるで自身が物語や意味に気づかずに巧妙に隷属させられているような違和感がある。物語や意味に自由を支配されているのにもかかわらず、人間自らがそれらに支配されることに望んで依存してしまっているような。


そろそろ字並べが文章と化し意味を発揮しようとしようと、意味で他者をつつこうとつつこうとしはじめている感が否めないので、記号の話はここいらで。おいとま。


さいごにあるあるだけ。そろばんあるあるだけ。

そろばんは配置系玩具と見た目で幼児を騙しておきながら、その実大人たち他人の定めた法則や意味がこびりついた物体とある日暴露されて、たちまち畏怖嫌厭の存在へと堕すあるある。

note試みはじめ

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noteは何かしらの感想や考察の他に日記や備忘録、ハウツーなど様々あって本当にブログのような感じですね 言葉や意味の話は漫画でも描いておられましたね!考えさせられる内容で面白いです

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