SamuZai
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自分でない誰かを感じる創作の世界はやはり楽しいもので^^*

あ、扉絵間違えたかも。エロ要素はまったくないですので。ごめんなさい^^

こんにちは、紫乃です。

いつも閲覧ありがとうございます^^

さて、

普段の自分ではない自分を演じてみる、

なりきり、とか、

ものまね、も、そうかもしれませんね

どちらにせよ、

やる前は恥ずかしいのですが、

やってみると結構面白かったりした経験をお持ちのかたも

結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。

「あれ、意外とできる?」

「しかも、結構楽しい 笑」

みたいな^^

女優さん、俳優さんも、知り合いはいないので想像ですけどw

きっと、演技という名目?を通して、

普段ではない、自分というものを

楽しんでいらっしゃるかもしれません。

そもそも、

「自分」とはどういう人なの??

そいう問われると、

やれ人見知りだ、とか、

短気だ、とか、

頑固だ、とか、

臆病物だ、とか

で、でも、まぁ、ちょっとは人の癒しになることもあるらしいよ、とか、 笑

全部、自分のことですがw、いろいろ出てきますねー。

ですが、心理学の視点で言うと、

それは自分の中にある過去の情報にアクセスして、

経験と照らし合わせた結果、

「こういう人だろう」

という自分像を”自分が”作り上げてるにすぎず、

実際には、人は、どんな人にもなれるそうです。

(書いてる自分が)えーって言いたくなりますが 笑

本来は、過去と未来はなんら因果関係はないのです。

これは確かに、俺の経験上でもそうだなぁ

と思えるようになってきました。

それを勝手に繋げているのは自分であって、

・こういう育てられ方をした、

・こういう環境にいた、

・こういう経験を積んだ、

>だから、私はこうなんだ

という、思考グセが人間にはあるようです。

それは、

だから、私はツイてるんだ

なんていう、良き解釈の方向もあれば、

だから、私はツイてないんだ

なんていう、悪しき方向のものも、

両方あると思います。

とはいっても、

そんな明日から急にまったくの別人に、仮になれたとしても

周囲の混乱を招くだけで、

自分が心地よいとか、気分がよいとかとは

ちょっとかけ離れた話のような気がします。

だから、演技で、ちょっと「仮体験」できるくらいが

ちょうどいいというか、

自分が思っている「自分」も持ったまま、

楽しい感じで終われるのかもしれませんね。

前置きが長くなりましたが、

この「仮体験」を、女優さんや俳優さんだけの

特権にするのはもちろんもったいない^^

同人に限らず、ですが、

創作活動で、そういった体験ができることも、

感じてらっしゃるかたも多いのではないでしょうか。

というのも、自分が描くキャラクターは、

(常識的な範疇で、思考・意識で描いている範囲では)(※)

所詮、自分が経験したことや、普段、考えている範疇内でしか、

行動しませんし、言動もしません。

・自分(作者)が許容していないことしかしませんし、

・自分(作者)が許容していないことはしない(できない)

のです。

(※)

(集合的無意識にアクセスできるとか、

 通常の思考、意識側でないほうで、創造、創作されているかたは別だと思います

 ここでは、通常の、顕在意識を使って創作をしている場合の話をしています

 なんかわからんけど、いきなり勝手に浮かんだとか、自分で描いた気がしないとか

 そういうのとは別ですね^^)

そいういった意味で、

自分の作品とは、

外に出したイラストや漫画もどき、落書きにいたるまで、

すべて、自分の思考を映し出した「鏡」であると言えるのではないでしょうか。

たとえば、

「ひどい言葉」

とか

「キツイ言葉」

なども、どこまで言わせることができるのか、

これは結構な冒険であり、創作の楽しみ方でもあると、個人的には思います^^

ここまではOkだけど、ここまで言ってほしくないとか、

このコはこんなこと言わない、とか、これはひどすぎる、とか、

いろいろ思考が回りますが、

すべて、自分の中にある善悪判断の、許容範囲内での模索(思考)です。

たとえば、

「ひどい言葉」

と、わかりやすいように、あえて書きましたが、

この時点でその単なる「言葉」を「ひどい」と捉えているのは”自分”です。

相手は、そういうつもりがなくても、

受け止め方がすでに「ひどい」になっているわけです。

そいった観点も含めて、

どうしてその「言葉」を、「態度」を、「行動」を、

”ひどい”

と俺は思うのだろう?

という 観察 が始まります。

ここで、いつも私が言ってる、いつも見てくださってる方は、

もう聞き飽きたでしょう 笑

二極論

がでてきます。

・悪が善を引き立てる。

・光あるところに影(闇)がある。

お互い、片方では存在できないこと。

・寒さを知って、熱さを知る。

双方があって、片方の存在を認識できる。

それがこの物質世界の理のようです。

要はメインのキャラや、そのキャラのよさをアピールしたいのなら、

その逆をやる、名サブキャラが必要という話です。

それだけだと、

なぁんだ、

という感じになるかもしれませんが、

メインキャラ、主役の良さを表現するのはきっと、

なんの抵抗もなく、喜々として描きあげれるものが、

逆側のキャラを描こうとすると、

うぅ・・・、と結構、心理的にぐさっときたり

描けなかったり、

ふと、こんなの描いてたら、

「人からなんて思われるんだろう」

なんて、躊躇しちゃったりするもので^^

それを、

「悪いことだ」と思っていたり、

「価値の低いもの」と、

解釈をしている自分に氣づけるわけです。

さて、それは、

ほんとうに価値は低いのでしょうか?

表現する必要はないのでしょうか?

善と悪で表現すると、一般論として、話がややこしくなりそうなので^^;

”光”と”影”でイメージしますが、

双方は、

天秤のように、ぴったり等しくつり合います。

質量でいうなら、同じ”重さ”であると言えます。

どこに価値をみるか、で、その価値はおおきく変わるようにも思えます。

片方があるがゆえに、もう一方が存在します。

それは、

「片方”だけ”にはできない」

「片方”だけ”にはならない」

ということを、理解しないと、ピンとはきづらいかもしれません。

あ、、あと、悪を許すのかとか、そういう話ではありません。

これは混同されがちですが、、、

その「悪」と定義したものを排除すべく生まれる「善」も等しく、

自動的に勝手に湧き上がって存在してきます。

磁石のSとN、電気の+(プラス)とー(マイナス)よろしく、同時発生するのです。

また、それを「悪」と捉えるのは(もちろん「善」も)、その人の「自由」です。

それぞれの判断があります。

創作活動は、そういった、

自分のなかの、”許容できない部分”を魅せてくれる

素敵なツール、活動であるとも感じています^^

いや、そんなの描かなくてもいいじゃないか!

描きたくないよ!

そう思うときもあります。

そうです、描かなくてもいいです。

ただ、

それだと、

・光しかない、

・(自分の中の)善しかない、

・熱いだけしかない(から、熱いということがわかない)

そんな世界になり

「ふぅーん」

の世界で終わるわけです。

ちなみに、いつものことですが、

だからそれが「悪い」とか、こっちがいいよ、という話ではありません。

いいですもの。

安心して読める作品。

ですが、もし、

そっちではなくて、もっとエキサイティングな、

感情が振れる体験をしたい。読み手にしてほしいと思った場合は、

その二極の「差」の表現はとても有効だと思うわけです。

そうすると、

すなわち自分の中の反対側の「許容」が必要になってくると。。

この、

「逆」

「逆」をどこまで描けるのかが、いま、自分の中でも結構ブームだったり楽しいところで、

創作の醍醐味のひとつともいえるんじゃないかなぁと思ってます^^

ちょっと、いやかなり、話がふわっとしてしまいましたが、

なんか、自分の描く話が面白くない、平凡だと思われていて、

なにか刺激が欲しいと思われてるかたがいらしたら、

自分が描けない、描きずらいキャラに

あえて挑戦してみても面白いかもしれません。

その「差」でもって、いままで平凡だった主人公が

急に輝き始めたりする かも しれません^^

描きずらさは、自分の中に存在する「制限」であると思います。

それを「許容」して、制限が外せると、

作品の中だけでなく、実際のリアルの行動でも制限が外れていることに

いずれ氣づかれると思います。

それは、女優さんや、俳優さんの「演技」にも似ていると思います。

結局は自分のもっている、思考範囲を拡げられるかどうかかなぁ。なんて。

いま目の前に描いてらっしゃるその「キャラ」は

自分の分身ではないかなぁと。

だから、その「演技」を、自分の「思考の拡大」を、

思う存分楽しみたいなぁとおもうとります^^

創作はほんとおもろいですね^^

つれづれですが、今日はこの辺で。

いつもありがとうございます^^

では、また。

紫乃

自分でない誰かを感じる創作の世界はやはり楽しいもので^^*

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