ですねえ。
僕は、よくハマる。
ハッと氣づきます。
「うまく描こう」
としているとき、
「うまく描こう」
としている自分をイメージしています。
これはどいうことかというと、
「うまく描こう」
としているわけですから、
描いている本人は
「うまく描けていない」
人である必要があります。
潜在意識はそれを、忠実に再現しますね。
お金が欲しい
彼氏、彼女が欲しい
と思っていると、なかなか手に入らない
逆引き寄せの法則と一緒です
願っているということは、それを手にしていない自分
である必要があるので、それが具現化されるわけです。
あ、なるほど、じゃあ、と
「私は、うまく描けている」
と、【完了形】で念じてみますが、
これも、人によってなかなかうまく描けません。
結局、
「うまく描くこと」に執着しているので、
「うまく描けるか描けないか」に意識が向きすぎていて
結局、うまく描けないほうに引き寄せられてしまいがちです。(人によりますが)
じゃあ、どうしたらいいのかという問いに対して、
おおかたでは、
意識を他に向けましょうと、
「楽しく描いている自分」をイメージしたりします。
つまり
「うまく描けるか描けないか」
から意識を外します。
禅にも通じるものがあると思いますが、
瞑想などを通して、こういった自問をしていると
結局、このとき、自分の中に
「うまく描けたほうがいい」
「うまい絵は評価される」
とか
「うまい絵が喜ばれる」
とか
「うまく描けてないものは人に見せられない」
とか
まあ、いろいろ
「うまくないと絵じゃない」
みたいな、いわゆる
【観念】
を持っていることがわかってきます。
しかし、それは本当でしょうか。
ここは、正しい答えというものは無いと思います。
プロからしたら、真なのかもしれません。
しかし、「うまい絵」というものがどういう定義なのかも人それぞれ
「自分の内面を表現する」
という視点においては、
絵がうまくある必要もないかもしれません。
誰がために描いているのか
どうして描いているのか
うまく描こうとしている時点で、
外の目を気にしている自分に氣がつきます。
そもそもは(自分の場合は)
自分の内面にあるイメージ
夢の中のようなふわふわした世界、その中に住む住人たち、
そいういったものを、紙とペンを通して、
目の前の物質世界に【具現させる】ことが、楽しかったわけです。
ただ、それだけだったわけです。
そして、具現させたものは、
友人に見てもらうことができます。
このとき、共感してもらったり、喜んでくれたりすると、
それは、やっぱり嬉しいわけで、
また、なにか具現化してやろうと思うわけですが、
これが、行き過ぎると(考えすぎると)
誰がために描いているのか
と、また迷宮に入ったりもします。
まあ、何が書きたいのか、僕もよくわからなくなってきましたが 笑
「うまく描こう」
としているときは、
本来の自分の【在り方】とずれてしまっているように感じます。
ほんとに、それ、必要かな?って。
でも、ついつい、
「うまく描こう」
とする自分がいる。
いや、それ自体、向上心だったり、追及心だったり、
全然いいんですけど、
その想いに捉われて、全然描けなくなって、
しまいにはやめてしまって
というのは、ちと寂しい気がしますね。
そこまで行っちゃうなら、
「うまく描く必要ってそこまであるのかな」
という、疑いの目も大切なのかもしれませんね
なんのこっちゃですが。
そんなことを、ごちゃごちゃ考えるよりも、
ヌコアリスでもてきとうに描いて、
ふにゃあ☆と、力を抜ききっているほうが、
自分らしいなあと思ったりもするわけです 笑
【楽しい】 状態
というのは、
本来の自分と一致
している感じがして好きですね^^
ではでは、また☆