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過去作再録 「紛争学園の日常~アラト編~ 1」


 神原軍立学園 下級年フロア


「あっちぃ~!! ……熱くね? なぁ、コウ」


 重石とつながったトレーニング器具のレバーを掴み、それを前へ引き、後ろへ戻す。


 頬に垂れた汗をそのままに、それを繰り返していく。筋肉がすっかり皮膚を押し出し、はりあがった腕や胸への負荷を確かに感じ取りながら、前畑 アラトはふと口を開いた。


「そりゃ、筋トレだからな」


 そしてその隣、熱い息を吐き、別の器具を使っていた安達 コウもまた、器具のレバーを離し、短く繰り返す息の間に答える。


 紛争学園の一階。下級年生用のトレーニングルームの一室。


 コウはその日、アラトとの談笑の流れで共に筋トレすることとなり、今に至っていた。


 他にも生徒や職員がちらほらと出入りしていたが、トレーニングルームはここだけではない為か、今は二人だけ。ちらと時計を見れば、夜の20時を回っている。いつの間にか夕食も忘れて没頭してしまった。

ふと、アラトははたつかせていたシャツに我慢ならなくなったようで、その裾に手をかける。


 すっかり汗に濡れて脱ぐのに少し手間取りつつ……アラトは体に張り付くそれを疎ましそうに脱ぎ捨てた。


 短パンのスウェット一枚となり、汗ばんだ体を外気に晒す。

 筋トレ後の体だからか、いつにもまして鍛えられた筋肉が一回り大きく張りつめていた。所々で堅く隆起し、熱気と汗を帯びている。


(やっぱり。普段からあんなハードな試合してると、体つきも変わってくるよな……)


 運営実態の情報を集めるべく、紛争学園に潜伏中のスパイとしての視点から、コウはじっとその肉体を見つめていた。


 本人の持つ闘争心なども影響してだろうが……、やはり、軍営の教育機関として所属する生徒の身体能力は優れている。教育から食事、そして負けるのが忌避される試合を時折迫る。


 ケンカ自慢、もしくは真剣に格闘技に取り組んでいる青年同士が頂点を目指し、挑みあう中、日々データを収集し、そして将来の軍人を育成する。ここではその為のカリキュラムを組み立てているのだろう。

恐らく、黙認されている試合以外での喧嘩なども、それに一役買っている。アラトの筋肉質な体に目を当てたまま、考え込んでいれば……、ふと、アラトと目があった。


 コウはすぐにそれとなく目をそらす。コウからの視線をどういう風に捉えたか、アラトはにんまりと笑みを浮かべる。


「へへ。最近本気で筋トレはまってっから。すげぇだろ、ホラ?」


 ふと、アラトが嬉々とした声でコウの背中を軽く小突く。


 ベンチから立ち上がると、……腕を曲げ、筋肉の駆動を意識し、二頭筋や腹筋を膨らませている。

 そのたくましさでも見せつけるようにポーズを決め、してやったりの顔で満足そうにしているアラトに、コウは目を丸めていた。


「けっこー太くなったろ? 腹筋とかもバリバリ調子いいし! ほら、触って見ろよ、かってーっしょ?」


「はいはい……」


「へへっ、なんなら抱いてやろっか? 明日暇だし今晩軽くヤってもいいぜ?」


「はいはい……」


 確かに堅い、頑張ったのだろう。


 最低限、アラトの自尊心を守りつつ……、淡々とそれだけの感想を浮かべ、コウは肩を竦める。面倒そうに、指の関節で晒されたアラトの腹筋を小突いておいた。


「へっ。今、クラスで一番強ぇのは間違いなく俺だし、このまま全部の学年シメて、俺が頭はるのも時間の問題だよなぁ~♪ その時は、ちゃんとお前を№2にしてやっからな?」


「おい、熱いだろ……、……ったく」


 汗だくの裸のまま、背後から肩に腕を回してくるアラトにも慣れたもので、コウはすこしむくれつつも流しておく。


 元々アラトの体躯は同期の中でも抜きん出て豊かだったし、腹筋も岩のように割れていた。第一、生徒同士の試合が日常茶飯事であるこの紛争学園では、鍛えた体はいやでも見慣れてしまう。


 何か変わったか? 内心で浮かべる感想はただそれだけだった。コウは自分のトレーニングに戻ろうと……、されど暑苦しいまでに筋トレ学生のノリを隠さないアラトに捕まってしまったことを憂い、嘆息を吐いた。


「……それに、なんでお前がクラスで最強なんだよ」


「へ?」


 ただ、それだけ少しひっかかり、コウはアラトに横目をやりつつ、ぼそりと反論する。


 ここにはスパイとしての役割を期待されて入学したとはいえ……、だからこそ、護身の教育は骨身に染みるほど受けてきたし、そこいらの輩には後れを取らない自負もあった。


「お、……俺もいるし。コホン」


「へぇ~……?」


「っ……」


 あまりに余裕なアラトの口を少しは黙らせてやりたくて、つい対抗意識を燃やした。


 だが、口ではそう言うものの……、勝ち誇るようなアラトの視線から逃れるようにそっぽを向く。


 数日前。自分は試合があって、しかも負けてしまった。そして同日にアラトも試合をしていて、そっちは勝っている。


 こびりついたような負けず嫌いが試合で勝ったのだ。アラトの機嫌がいいのはその通りだろう。だが、……はっきり言ってこっちは不機嫌だ。特別、アラトほどに負けず嫌いな自覚はないが……。


 むくれたコウが言い返すも、それすら面白そうにして、アラトは歯を見せて挑戦的に笑うばかりだった。


「んなこと言っていいのかなぁ~? 絶対俺の方が強ぇし。なんだったら今からお前とタイマンはってやってもいいぜ?」


「ぐ……くくっ。や、やめろって……!」


 実際にケリがつくまで、アラトが勝ち負けの話題で譲ることは有り得ない。


 それは分かっているが……、嘆息混じりのコウに対してアラトは唇を尖らせ始めると、後ろから絞めない程度にコウの首に腕を回した。


 戸惑うコウをそのまま捕らえつつ、背後からコウの肩に顎を乗せ、わき腹に指を立ててくすぐりはじめる。

大型犬どころでないアラトとは、じゃれ合いすら命に係わる気がする。その堪えがたい感触に、コウは身を捻ってもがき続けた。


「へへっ、オラ! やんのか、やんねぇのか? 喧嘩ならいつでも買ってやんぞ、コラ!」


「くくっ……、お、おい、やめろって……! ったく……殴り合いなんて試合で十分だよ。お前は違うかもだけど……。

 でも、俺の戦績だって悪くねぇし……」


 にししと笑って、アラトはコウをくすぐり続ける。コウは身悶えしながらも手と言動で抵抗を続けた。


「けどお前、前の試合負けたじゃん。俺は勝ったぜ?」


「…………」


「ホラホラ、認めろって。トータルの戦績だって絶対俺の方が勝ってんだからさ?」


 アラトもどこかそれを面白そうにして、鼻高々と得意げになってちょっかいを出してくる様子だった。


 コウはぴくりと肩をはねさせたが、ひとまずはなんとか堪えに入る。……ここで腹を立てても仕方がない。所詮は調子のいいアラトの言うことだと自分へ言い聞かせる。


「コウは部屋でパソコンばっかやってるから、ヘチョイもんな~♪」


「…………なに?」


……余計なお世話だ。コウが何か言い返す前に、アラトは更に、まばゆいほどの屈託ない笑顔で続けた。


「だって俺が隣に立ったらなんか可哀想だもんな? 雰囲気もちょっとチャラついてるし」


 ……ぶちっ。


 くすぐる手を止めたアラトの言葉に、さほどの悪意も陰湿さもないことは分かる。ただ、馬鹿なだけだ。まじめに受け取っていれば疲れるだけ。


 それでも、その無遠慮きわまりない言葉で、ついに頭の何かが弾けた。ゲラゲラ笑うアラトを背後に置いたまま……、コウは静かに、顔を前のめりに傾ける。


「…………へぇ。だったら、俺なんか足元にも及ばないかもな……?」


「ははは、……へ、なんか言った?」


 目元を前髪の影に隠し、コウは唸るようにぼそりと囁いた。アラトは能天気なままで聞き返す。


 そして、背後に密着してくるアラトの体、その腹部を見るまでもなく、経験則で位置を捉える。静かに腕を曲げ、肘を立て……。


 ドボォォッ!!


「ぶはっ!?」


 全く加減なく、アラトへ肘打ちを放つ。


 背後に向けた肘がアラトの腹筋その中心へと突き刺さる。さぞ油断していただろうアラトは目を見開いて呻いた。


 ……ざまぁみろ。冷ややかなコウの目は、背後で呻くアラトを向いておらず、ただ見るともなく壁を見つめていた。


「わるい。手、滑った」


 全く悪びれずに言うと、コウは首に絡むアラトの腕を外す。たやすくアラトから逃れると、指の骨を鳴らし、立ち上がって振り返った。


 よほどいい具合に入り込んだか。一転して苦しげに口ごもり、腹を抱えて悶絶するアラトを淡々と見つめる。


「ぐ、ぅ…………、……コウっ!!」


「軽く当たっただけだったんだけどな……? 痛かったか? 悪いな、なんか強くて」


 いいざまだ、とは口には出さず。コウは素知らぬ風にいうと、その代わりに口元に少し笑みを浮かべて見せつけた。


 息を吸い、打ちいれられた腹筋を脈動させ……、一瞬で頭に血を上らせたアラトは、鋭い目つきでコウを激しく睨み続ける。


「っ……!! テ、テメェ……!!」


 ドゴォォッ!!


「っ……!」


 仕返しとばかりに、今度はアラトの拳がコウの腹筋に打ち込まれる。


 途端に、腹部に駆け巡る衝撃。アラトの怪力を真正面からままに喰らって、コウは腹を押さえつつ呻く。


「……っ! アラト……」


「へっ……悪ぃ、おれも手滑ったわ~……」


 そういいつつも、魂胆は自分と同じに違いない。


 手をひらつかせ、意地悪く笑うアラトに対し、それを口で責めることはできず……、コウは腹を押さえつつ、憎々しそうに目を細める。


「………………」


「ちょっと当たっただけだったんだけどなぁ~? なんか俺、強すぎちゃってごめんな?」


 腹をさすり、悪びれもなく言うアラトに、コウは顔をひきつらせつつも、笑う。


 挑発以外の何物でもなかった。そして、トレーニングルームには二人きり。


 ……視線を突き合わせ、静かに、どちらともなく拳を構える。今は試合ではないが……それでも互いの態度で、二人の間に火花が弾けた。


 コウは目を細めると、素早く拳を握った。


 ドゴォッ!!


「……ぐっ! ……へっ、効かねぇ!」


 迫る来るコウの拳へ、アラトは避けることもせず、寧ろ腹筋を突き出して受け止める。


 鋭い衝撃に見舞われて呻くものの、アラトはノーダメージをアピールしたいのかすぐに笑みを浮かべる。

 そして、アラトも間髪おかずに拳を握る。コウはハッとして目を見開く。


 ドガァッ!!


「っ……! その程度かよ、アラト……?」


 だからこそ、アラトの凄まじい威力の拳を腹に受けても、コウもまた強がる笑みを浮かべる。


 その態度は、さらにアラトの胸に火をつけた。見る見るうちに闘争感情を燃え上がらせて、同様にコウも感情を高ぶらせていく。


「っらぁっ!!」


 ドボォッ!


「がっ……、おらぁっ!!」


 ドゴォッ!


 そして、互いの目がぎらと光った直後、さっそく殴り合いとなった。どちらがより強いかをせめぎ合う為、狙うは腹筋、早速もう一発ずつをねじり込む。


 だが、互いに力を堪えて耐えた。一発で倒れることなどなく……、殴られ、殴り終えたコウは見せつけるように笑い、それを見たアラトはさらに熱を上げていく。


「はぁ、はぁ……」


「へっ……、コウ。もうへばっちまったのかよ? 喧嘩売ってきた割には大したことねぇなぁ?」


 だが……、同年代とはいえ、やはり体の頑丈さや腕力では及ばない。腹に渦巻くダメージを気にしつつ、コウは息を荒らす。


 一方、アラトは腹筋をやや赤らめてはいるものの、まだまだ余裕といった態度を崩さない。負けず嫌いなアラトだが、そればかりは決して強がりではないだろう。

 だが、ここで潰れればナメられる。コウは勢いのままに余裕の皮をかぶり、笑みを浮かべた。


「そっちこそ……、前より弱くなったんじゃないのか……?」


「んだとっ!、テメェ、コウ……っ!!」


 コウの言葉に触発されてか、アラトはさらに瞳の中に炎を滾らせる。と、頭の後ろに手を回し、無防備な腹筋をコウへと突き出した。


「……いいぜ。んなら決着つけてやるよ……、オラ、次こいよ、コウ!」


 アラトの中ではすでに、アラト自身の好きな喧嘩にでも発展しているのだろうか。腹筋にあらんばかりの力がこめられ、より隆起が際立ち深く溝を生み出している。


 コウからの拳に身構えている。コウの拳をその腹筋で受け止め、……そしてその次への反撃の気配を隠さず、アラトはコウを睨みつけた。


「ほら、早く打ってこいよ……! そしたら、テメェの腹、ぶっ潰してやっからな……!」


「…………」


 二人の空気がそこまでに熱くなって、そこで、コウがいち早く冷静さを取り戻した。

 力を込めれば、まるで岩のようにボコボコと形作られているアラトの肉体。その見た目に違わず、アラトの頑丈さは下級年で随一だ。このまま、真正面から一発ずつ殴り合ったなら勝機は薄い。


 その後は間違いなく、アラトの独壇場となるだろう。冷静に計算した後、コウはそっと口を開いた。


「……アラトの部屋に行くか?」


 コウの言葉を、即ち、「邪魔されない場所で二人きりで決着をつけよう」と、そう解釈したのだろう。

 アラトはコウを強く睨みつつ、鼻息荒く頷いた。


「……へっ、いいぜ! 面かせよ、決着つけてやっからさ」


 すると、アラトは脱ぎ捨てていたシャツをとり、コウの肩を叩いてシャワー室へと急かしていった。



 ここにくる前に、予め着替えも脱衣のカゴの中においておいた。シャワーをあびて、着替えて、その後に続きだ。


 アラトは好戦的な笑みを光らせ、前を歩いていくコウの背中を睨んでいた。


 トレーニングルームを出て、吹き抜けで繋がったすぐ隣の部屋。シャワー室に入り、シャワーで火照った体の汗を流していく。


 手早く浴びて、髪をかいて水気をとばす。バスタオルで湯を拭い、下のハーフパンツだけ履き、水の滴の垂れた半裸で髪をふきながら……、アラトは脱いだシャツのはいった袋を片手に、首からタオルを提げたまま、飛び出すようにコウの入ったシャワー室へと向かった。



「うっし! オラ、いくぞコウ! 覚悟しやがれ!」


 拳を握ってアラトは大声で叫ぶ。


「俺に喧嘩を売ったことをせいぜい………………、……?」


 だが、景気よく叫んでも、どういうわけかカーテンの向こうから返事が返らない。


 シャワーの音もしない。浴び終わっているなら、何故でてこない? コウの気配を感じられず、アラトは首を傾げた。


「…………コウ?」


 そこで、ふとアラトは出入り口へと向く。……そして、唖然と口を開いた。


「………………へ?」


 遠くに見えた人影。よくよく見れば、それはコウだった。


 恐ろしい程の速度でシャワーから着替えまでをすませて、もう遠くに駆けだしている、コウの後ろ姿。

曲がり角を曲がり、慌ただしい駆け足の音も、すぐに聞こえなくなってしまった。


 ……逃げられた。しばしぽかんと口を丸くした後……、状況を理解し、アラトは次第にわなわなと震え始める。



「…………待てコラっ、騙したなテメェっ!!!」


 ご丁寧にシャワーの個室のカーテンを締め切ったまま。自分から逃げたコウを見つけるや、アラトは半裸のまま、そのあとを追って駆け出した。



 鬼気迫る勢いでアラトに追いかけられ、夜の校内を全力疾走。


 時には隠れてやり過ごす。見つかればまた逃げる。職員に見つかればどえらい事になるだろうが、ともかく目先の火の粉の対処をと、今は気にとめていられなかった。


 なんとか無事アラトから逃げおおせて、気がつけば一時間が立っていた。


 向こうが見失ったのか、いつからかアラトの姿が背後に見えなくなり、帰り道にもその気配に気をつけつつ、なんとか自室に辿り着くことができた。


 危惧していた待ち伏せもなく、部屋にたどり着いて今に至る。



 ……五分後。悲しくも予想通り、自分を見失った筈のアラトが諦めることなく、コウの部屋の前までやってきた。


「おい、コウ! いるんだろ!? やっと見つけたぞコラァッ!?」


 ガチャガチャ。ドン! ドン!


 鍵のかかったドアの持ち手をなんども掴んで動かし、激しくドアを叩き続ける。


 鬼気迫るその様子に恐怖すら覚えたほどだ。だが、開けるわけなどない。足音をたててしまったし、今更居留守は通用しないだろうと、コウは扉の内側から他人事のような声色で口を開いた。


「悪い、風邪引いた。帰ってくれ」


「あぁ!? テメェふざけんなっ、さっきまで一緒にいただろが! 別になにもしねぇよ! だから早く開けろって!」


「……そうは、思えないけどな……」


「情けねぇぞ! 男の勝負から逃げんのかよ!? おい、開けろコラッ!!」


 何もしないなんてありえない。それは間違いない。


 嘆息混じりの引きつった笑みでぼそりとコウが答える。聞いたアラトはしばらく扉の向こうで叫んでいたが、その後……、こちらが黙っていれば、段々と静かになっていった。


 そして、ドアを叩くのをやめ、扉の向こうから足音が聞こえてくる。やがてそれは遠くなっていった。


(諦めた、のか……?)


 おとなしく帰ったのならなんとか命拾いだ。このままアラトと殴り合えば、結果は目に見えている。


 だが、普段のアラトを知っているからとてもそうは思えない。勝負事に熱があがれば、きっと自分を捕まえる為にどんなことでもするだろう。その決着がつくまで……。


 ……外の状況が気にはなるが、今、開けるのは危険だ。コウは嘆息を吐いた。


 …………ドン、ドンッ!!


「っ!?」


 その乱暴な音に振り返った瞬間、コウは背筋を凍らせた。


「っ!! ……っ! ……!!」


「…………、嘘、だろ……?」


 悲しくも、予感は的中。……アラトだ。ベランダに半裸のアラトがいる。今度はしっかりと目があってしまった。


 ここは一階だ、外からフェンスを乗り越えてベランダにあがってきたのだろうか。あの高い壁を身一つで乗り越えるなど、簡単な事ではないはずだが……。


 ともかく、ベランダにてぎりと歯を食いしばったアラトが、こちらを睨んで何かを叫び、ガラス戸を叩いている。コウはどうすることもできずにそれを見ていた。


「ア、アラト……?」


 ……が。やがて看過しきれなくなってしまった。叫ぶのを止めたアラトがさらに鋭くコウを睨む。と、なんと足を構え始めた。


 ……蹴破る気か!? そんなことをされてはたまらず、コウはすかさずガラス戸に駆け寄って、鍵へと手を伸ばす。


 ガチャ……、ガララ。


「うおらぁぁぁっ!!!」


「うわぁっ!?」


 戸が開けられた瞬間……、待っていたと言わんばかりに、アラトは部屋に押し入り、コウの肩へと掴みかかった。

 半裸の状態で掴みかかり、勢い任せに二人揃って床を転がり、そのまま床へと押し倒す。


「はぁ、はぁ、はぁ……、へへっ……やっと捕まえたぜ……コウ……!」


「ア、アラト……?」


「はっ……! この俺に喧嘩売っといて、まさかタダですむと思ってねぇよなぁ……? あぁ?」


 のし掛かるようにして倒れ込むと、コウのシャツを握りつぶし、馬乗りになる。


 アラトの悪戯な笑み、そして敵意を秘めた瞳に真上から睨まれて、コウは頬から血の気を引かせた。


「先に、喧嘩売ったのは、お前……いっ!」


「まぁ、もう逃げられねぇよなぁ……? 覚悟しろよ、今からお前の腹、ボコボコにぶっ潰してやっからな……! オラ、脱げよ!」


 すると、どういうわけか、アラトはコウの上から退くと、コウのシャツを乱暴に掴み、めくり始める。


 千切られんばかりの勢いだ。コウはそれを静止し、自ずと服を脱ぐ羽目になった。


 再び、半裸で向き合う格好となる。アラトはやっと満足そうに落ち着きを得た。


「へっ。確か、次はコウの番だったよなぁ……?」


 どこか影の映えた笑みで、ぱしっと拳を叩き合わせながらアラトが言う。そして、変わらず筋トレ直後で激しく隆起した腹筋をコウへと晒した。


「オラ。次殴れよ!」


 頭の後ろで手を組んで、ぐいと腹筋を突き出してくる。


 力んではいるが、隙だらけだ。だが、ここで手を出してしまえば、即ちまた腹パン勝負が始まってしまう。

即ち、その後には全力のアラトの反撃が飛んでくる……。一撃で倒せば何とか……。コウは考えていたが、ふとアラトが鼻を鳴らした。


「俺が負けたら、どんなことでも一つ聞いてやるよ。お前も、負けたら覚悟しとけよ……!」


「っ…………」


 やはり、勝負なんて出来ない。負ければアラトから何をされるかしれたものではない。


 だが、ここは自室だ、これ以上逃げ場なんてない。そして何より、スパイとして活動している手前、証拠を残した記憶はないものの、この部屋を好きにうろつかれるわけにはいかなかった。

 コウがしどろもどろと手を出さずにいれば、やがてアラトがじれたように喉を鳴らした。


「やらねぇならパスだよな、じゃあ……」


 アラトの言葉を聞くや、急かされたコウはついに覚悟を決め、拳を握る。


 ドガッ!!


「いっ! ……へっ! ビビって逃げ回ってた割には、結構いいの打つじゃんか……、よっ!!」


 ドゴォッ!!


「ぐっ……!」


 コウが殴れば、アラトはすぐに反撃した。


 だが、アラトの肉体の頑強さは言わずもがな。大して怯むことなくすぐに返ってきた反撃の拳は重くのしかかってきて、コウは呻きそうになるのをなんとか堪える。


「オラ、次こいよ……? その次、俺の番だから」


 まだまだ。そう言わんばかりに、アラトは指を振って挑発を送ってくる。再び、頭の裏で手を組んで腹筋に力を込めていた。

 ……やるしかない。ここでアラトを倒せなければ、身の危険は現実のものとなる気がする。


ドゴオオォッ!!


「オラァッ!!」


グボオオォッ!!


「ぐふっ……!」


………………。



「はぁ、はぁ、……うらぁっ!!」


 ドボオオオォォォッ!!


「がっ! ……ぅ…………!」


 五発殴り合い、そしてアラトの番。


 アラトの鋭い拳が腹へと突き刺さり、そして潰された腹筋にめりこんでくる感触に、コウは一際顔色を変える。


「かっ……は……ぁ……」


 腕力だけなら下級生でも一番かもしれないアラトの拳を、避けることもガードすることも出来ずに喰らい続ける。こらえた方だと思うが、いよいよ限界だった。


 したり顔で、アラトが拳を抜く。腹を抱えたコウが、膝をついて崩れた。


 同時に、アラトはガッツポーズをして勝利の雄叫びをあげる。


「しゃああぁぁっ!! 俺の勝ちだぁっ!」


「ま、まて……、俺は……!」


 腕を掲げて力を誇示するように、嬉々として勝ち鬨をあげていたアラトだったが、それに待ったをかけるようコウがよろよろと体をもたげるのに、ふと笑みを浮かべた。


「はぁ、はぁ……、なんだよ、コウ。まだやんのか?」


 床に手をついてなんとか立ち上がろうとするコウを見下ろしながら、アラトは腰に手を当て、荒れた息を整える。


 負けたくない。というよりも、負けた後のアラトからの罰ゲームにいやな予感を感じてならなかった。アラトにとってはプライドをかけた喧嘩そのものだろうが、この際、潰されたプライドなんてどうでもいい。


 優先すべきは、身の安全だ。そして何より、一刻も早くアラトをこの部屋からつまみ出さなければ。この学園での試合で負けたものは、勝ったものに好きにされる。つまりは慰めモノとして、犯される。


 試合でも何でもないとはいえ、それは校舎裏の決闘などでも同様で、自然な流れだった。……このままでは十中八九、アラトに犯される……。回避するためには、なんとしてでもアラトを倒さなければならない。


「まだ俺に殴られてぇのかよ? 今、俺がマジで殴ったら、今度こそ内蔵イっちまうかもなぁ~?」


 拳を握り、これ見よがしにシャドーボクシングをしてくるアラトを前に、コウは顔をひきつらせつつ、しかし胸を張って受けて立った。


「ぐっ……、やって、みろよ……!」


 得体の知れない恐怖はもちろんだが、尚更負けを認める訳には行かず、コウも拳を上げて身構える。

試合でないとはいえ……、いや、だからこそか。こんなラフファイトで今のアラトに負けてしまえば、罰ゲームと称して一体どんな目に遭わされるか……。


「へっ、いいぜ? だったら、徹底的に負かしてやるよ!」


「っ」


 また、腹が……、その衝撃を思うとコウは戦慄したが、その様子を見てか、アラトはわざとらしく肩を竦めると、コウの肩を軽く小突く。


「そうビビんなって。腹パン勝負は決着ついてるし、腹はもうやめといてやるよ」


「び、ビビってねぇし……!」


「でも、覚悟しとけよ……? 喧嘩なら俺は容赦しねぇからな! たとえお前でもよぉ……! うらぁっ!!」


 アラトは指の骨をならす。と、唸りをあげ、コウの肩を掴んで組み付いていく。


「っ、何、を……!」


 体勢が崩れたコウの背中から伸し掛かるようにして、体重をかけていく。瞬く間に腕をその首に巻き付け、暴れもがこうとするコウを背中から制していった。


 逃がさぬように、コウの背中にどかりと腰を下ろす。自らの体でコウを固定し、そして首に引っ掛けた腕を引き、持ち上げる。


 途端に降りかかった喉の息苦しさ、そして首や背の関節に至る引きつる痛みに、コウは悲鳴を上げ始めた。


「ぐ……、あぁぁぁっ!!」


「オラ、さっさとギブしろよ! さっさと負け認めんなら、優しくヤってやっからよ?」


 汗だくで絡まり合う中、アラトは眼下のコウに向かって吠える。突如にして寝技で襲い掛かって来たアラトに抵抗するべく、コウは首を振り、必死にもがき続けた。


 負けを認めれば、それ即ち終わりだ。背にのしかかるアラトの熱い体温、そして重さから逃れようと、コウは震える指先を床になぞらせ続ける。


「う……うるさい……! 俺は……、うがぁぁっ!!」


「へっ、なかなかやるじゃねぇか! ……じゃ、これでどうだ、オラァッ!!」


 コウの首を離す。だが、次にとアラトはコウの足首を掴んでその身を持ち上げた。

体ごと反転し、そしてコウの足を逆方向に抱え込んだまま、再びコウの背中に腰を下ろした。


「おらぁっ!!」


「!! ぐあぁぁぁ……っ!!」


 所謂、逆エビ固めだ。暴れること自体が楽しくて仕方がないようで、アラトは喜々として襲い掛かってくる。そして軋むような肉体の痛みに、コウは歯をくいしばって耐え続けた。


「ぐっ……! うあぁ……!!」


「ははっ! オラオラどうしたぁっ!? こんなもんかよ、コウっ!?」


 苦し気に顔を歪ませ、必死に耐えるコウの顔を見て、アラトは高らかに声を張る。


 楽しそうなその声色に、コウはことさら険しく眉を顰め、思い通りになってたまるかと抗い続けた。


「ふはっ! アラト様には叶いませんっていったら、放してやってもいいぜ?」


「ぐ……っ……、こ、のぉ……!!」


 このままでは、やられっぱなしだ。アラトの玩具にされたままでいるなんてありえないし、第一身が持たない。


 コウはぎりと奥歯を噛みしめると、下半身に一気に力を込める。唐突な抵抗に「うお!」とアラトが動揺した直後の事、汗で滑ったのもあり、左の足首がアラトの手の中からすり抜けた。


 ドガッ!


「んぐ!」


 そして、空いた左足で即座にアラトの顔面を鼻先から蹴りつける。油断していただろう、のけぞったアラトはままに片側の足首からも手を放す。


 その隙を逃すはずもなく。コウは自分の伸し掛かるアラトを振り払うと、すぐに向き直り、今度は床で口元をさすっているアラトへと襲い掛かった。


 同じように足首をとる。はっとしたアラトがもがこうとするも、時すでに遅く。


「クソッ……、やりやがったな……」


「調子に……のるなよ……、うらぁっ!」


「がっ……、があああぁぁぁぁっ!!!」


 アラトの右足を抱きかかえ、両手でもってあらぬ方向へと捻りあげつつ、アラトの股関節を開く形にして決めていく。


 今度は、アラトが関節の痛みに声を上ぞらせる羽目となった。


「て、テメェ……! うがぁぁ……!!」


 振り払おうとコウに殴りかかろうとするも、そのたびにコウは足と腕に力を込める。捻る角度を上げるたびに、アラトはそれどころではなくひたすらに悲鳴を上げた。

 加減は把握している。関節を壊さない程度、だが手加減はなく、コウはアラトを責め続けた。


「がぁぁ……、くそぉ……っ!」


「アラト! 関節痛めたくなかったら、自分の部屋に帰れ!」


 重く硬い筋肉に覆われた足を抱え込むのでさえ一苦労だったが、ここで放せば、息を吹き返したアラトはさらに熱を上げて襲い掛かってことくるだろう。


 コウが声を張り上げるものの、アラトは寧ろ、挑発するように笑みを浮かべた。


「へっ……、やってみろや……、勝つのは、俺……、があぁぁ……っ!!!」


 コウがさらに力を込める。まるでマットでも叩くように……アラトは床をばしと叩き、必死にその痛みに耐え続けた。


「っ、アラト……、これ以上は怪我するぞ……」


「……っ! へへ、やっと本気だしたかよ、コウ……!」


「何……?」


「試合も、喧嘩も、本気じゃなきゃ楽しくねぇからな……! ダチだからって、手ぇぬくんじゃねぇぞ……!」


 痛みに顔を歪ませながらも、アラトがにやりと笑う。


 相変わらずの、負けず嫌いというか。アラトの態度に嘆息を吐くと……コウもつられて笑った。


「……へっ、男同士、どうせやるならよぉ……! とことん全力でぶつかり合おうぜ……、っ!!」


「……後悔、するなよ……!」


 ……説得は失敗。すっかり頭にアドレナリンが滲んでいるのか、目が血走っている。


 であるならば、尚更油断などできず、コウは関節を責め続ける。


「!! うあ……、があああぁぁぁぁっ!!!」


 加減なしに力をつぎだす。すれば股関節がぎしと開かれ、あらぬ方向に関節が捻られる。

 だが、想像通りすぐにはその口から諦めが飛ぶことはなかった。アラトは自身の目元を掴んで、汗をとめどなく噴き出しながらも、必死に堪え続ける。


「アラト、さっさと諦めろ! お前の負けだろ!?」


「ぁぁ……っ!! な、めんなぁっ……!!!」


 いくらケンカ自慢で頑丈だとしても、こらえるのにも限界はあるだろう。それはそうだ、既に足の角度は怪我寸前にまで及んでいる。


 激痛必至の筈なのに、相変わらずの強情さに、コウは下唇をを噛む。


「はぁー……っ、はぁー……っ、はぁー……っ、…………うらぁああっ!!」


「!!」


 ふと、コウが目を見開く。アラトが鼻息を荒らし、足に力を込め始めた。

 コウは油断を捨てて、すぐに構え直そうとする。だが、血管が浮くほどの力を腹筋に込め……、アラトは必死に抵抗する。


「うわ……っ」


すれば、ゆっくりとコウの力に抗い始め……、次の瞬間、その足首はコウの手をすり抜けてしまった。


「はぁ、はぁ……。へへっ、こんな、もんで……、やられっかよ……!」


「アラト……!」


 床に大の字になり、にししと笑って荒れた息を吐く。体の痛みもさることながら、いまだ有り余るらしいアラトの体力に辟易し、コウは嘆息を吐いた。


「……満足したか。もう、部屋に戻れよ……」


「……はっ! 冗談だろ、タイマンはまだまだこれからだっつの!!」


 するとアラトは、足を持ち上げて床を蹴り、膝だけで勢いよく立ち上がる。反応したコウを向くと、その迎撃を許さぬ速さで組み付いた。


「オラッ!!」


「ぐっ!」


 肩を掴み、床に押し倒す。咄嗟に逃れようとするも、かかってくるアラトの怪力に抗いきれず、コウはままに床に押し倒された。

 痛みに呻きつつ、そっと目を開ける……、上には、アラトのしたり顔。コウはごくりと唾を呑んだ。


「今度はこっちの番だ、オラァッ!!」


「ぐっ……!」


 熱い汗と体温のほとばしるままに、アラトが首に腕を巻き付けてくる。筋肉質な肉体を背後からしっかりと密着させ、コウを捕えて逃がさない。


 かろうじて喉まではしまってはいなかった。その隙間をせめて確保するように、コウは指を差し込んで抵抗する。


 ……だが、このままではまずい。アラトの剛腕に抵抗を続けるのも時間の問題だ。


「おらっ! ギブか!? コウッ!」


「ぐぅ……、アラト、これ以上は許さないぞ……!」


「はっ! だから、手加減なしで来いって! 手抜きなんて許さねぇ、真っ向からお前を倒してやるよ!」


 威勢のいい声と共に、腕の力はますます強くなる。コウは締まってくる腕に指を立て、必死に這い出ようともがき続けた。



ピー……。


「ん?」


「!!?」


 リビングで体をぶつけ合っている最中……、ふと、引き伸びた電子音が響く。


 何の音かとアラトは首を傾げ、……そしてコウは、一瞬で顔を真っ青にした。


(まずい……!? パソコン、ロックしてない、…!!)


 アラトは不思議がるものの、コウは聞いた途端に体中から一気に冷や汗を噴き出す思いだった。

この電子音は、すなわち、愛用しているPCからのもの。一定時間操作がなければ、ロックを忘れないように設定されてある。


 部屋にはアラトがいて、今、その耳に届いた。まさに最悪のタイミングだった。


 PCには、書きかけのデータが残っている。ここに潜入して集めた情報の、報告書。


 ただの一枚分でも、万が一、アラトに見られれば……。


「……? んだよ、なんでこんな夜に目覚ましセットしてんだ?」


「……!!!」


 コウの首を絞めつつ、一方のアラトは単純に不思議がって、音のする扉、寝室へと目をやってしまう。

……まずい。本当に油断していた。まさかこんなことになるなんて想像もしていなかったから。


 もっとも神経をとがらせていた故に、他人を自室に入れるなんて初めてのことだったから、うっかりしていた。いや、招いたつもりなど毛頭ないが……!


(ま、まずい……! アラトに、見られたら……!!)


「なんだよ、あの音。うるせぇな……」


「!! ……っらぁぁっ!!」


 ゴッ……!!


 アラトがその音を疎んじて、興味を強めた、その瞬間。


 人知れずとてつもない窮地に追い詰められた上、アラトに身動きを封じられていたコウは、もはや手段を選ばなかった。


「っ…………へ……?」


 アラトにしたら、まさか。ただその思いだった。


 急所の、やや下から、上につきあげるように。コウの拳が食い込んでいる。


「あ、ぁぁ……っ、……があああぁぁぁぁぁっ!!?」


 アラトがそれに目を落とし、それから少しして、その顔がだんだんと青ざめる。

自覚が追い付いて……、途端にすさまじい痛みが込み上げてきたのだろう。同じ男として、それこそ想像を絶するほどの。


 露骨な金的だった。聞くに堪えない悲痛さの悲鳴を上げ、激痛でアラトは涙目になってのたうちまわっている。


 コウはすぐにアラトから抜け出し、立ち上がった。


「こ……、コウ……っ……!! お……、お前……ぇ……っ!!」


「……悪い、アラト……」


 何故、いきなりこんな目に。震える指先で床をひっかき、アラトが恨めしげに唸る。だが、コウは申し訳なさをひとまず押し殺し、アラトを見もせずに、一目散に駆けだした。


 パソコンのある寝室の扉を開け、あわててキーボードを叩き、ロックをかける。


 そこで、ようやく安堵の息を吐いた。


(よ……、よかった……、ここにいられなくなるとこだ)


 部屋に自分一人だとしても、いつもは離席のたびにロックをかけるよう心がけていたのに、こんな時に限って忘れるとは……。


 いかにアラトが無関心だとしても、万が一に見られたなら、どれだけ軽く考えても自分は所属元から罰されるし、ここからは出なければならない。


 ……最悪は、所属元にアラトの命すら狙われかねない。仮にも軍の関わる組織への潜入、自分は秘密裏にそれだけのことをしているわけで、どう転んでも危険なことになるだろう。


 とにもかくにも、一安心とコウは息を吐く。


(……そうだ、アラト……。結構、遠慮なくやっちまったな……)


 未だ、その感触は手に残っていた。いくら襲いかかられたとしても……、あれは流石にやり過ぎたと思う。

それだけ焦ってしまったのだ、その理由ばかりはアラトには話せないが……。


 ……熱が上がったアラトを止められる自信はないが……、それだけ謝らなければならない。コウはパソコンから振り返り、リビングに戻ろうとした。


「っ」


 扉へと向く。同時に、アラトと目があった。


「……………」


「ア……アラト……?」


「………………」


 嫌な、沈黙だった。コウはその様子を伺うように声をかける。


 開け放された寝室の扉の前、……何も言わず、ただじっとこちらを睨みつけている。決して冷静ではないだろう、血走った瞳で。

 一言目を聞かなくても、瞬時に悟った。ヤバい、キレている。完全に。


「……アラト?」


「………………」


 ここは自室で、これ以上逃げ場などない。なにより、ロックされているとはいえパソコンに近づけさせる訳にはいかない。


 コウは観念すると、せめて無抵抗を示す様に手を挙げ、冷静を取り繕って歩き出した。


「……アラト、さっきは悪かった、ちょっとアラームが……」


「…………」


「向こうで、続けるか……な?」


かなり、勇気のいる決断だったが。このままアラトが寝室に入ってくる前にと、コウはいそいそと歩き出した。


 自ずと、敵であるアラトが仁王立ちする扉へ……。


 …………ガシッ!!


「っ!!?」


アラトの前、寝室を出ようとしたその時。コウは手首が掴まれ、ままにひねりあげられた。



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