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第1章 第十一話

【それでも世界は回っている -OZ-】 第1章「目覚めの草原」 第11話「名前を忘れる風の中で」 草が、音もなく揺れていた。 風は、一定のリズムで吹いているわけじゃなかった。 あるときは前から、またあるときは真上から── まるで意志を持っているかのように、ぼくの周りを回っていた。 「……やっぱり、変だ」 カイルのくれた地図を手に、ぼくは草原を進んでいた。 方角は間違っていないはず。太陽の位置も、そこまで狂っていない。 けれど、何かがおかしい。 一歩一歩、草を踏みしめるたびに、空気が変わる。 それは気温でも、湿度でもない。 “何かに見られている”ような感覚。 「………………」 口に出そうとして、ふと立ち止まった。 今、自分の名前を言おうとしたのに、言葉が出なかった。 ド……ロ…… 音が舌の上で止まる。喉を通らない。 頭の中には確かに浮かんでいるのに、発音しようとすると、風が音を奪っていく。 「…………ッ!」 思わず喉を押さえた。 さっきまで当たり前のように呼んでいた名前が、舌から滑り落ちるように消えていく。 風は吹き続けていた。 小さく、しかし確実に、ぼくの輪郭を削るように。 ──ここは、“風の領域”。 カイルが言っていた。 この世界には、“風に名前を奪われる場所”がある、と。 ぼくは今、その場所に踏み込んでしまったんだ。 * * * 夕日が落ちるのが早い。 いや、まだそんな時間じゃなかったはずなのに。 空が、ほんの数分で朱から群青へ、そして濃い藍へと染まっていく。 まるで“時間”そのものが、風に溶けているかのように。 「やばい……帰れないかも……」 引き返そうにも、来た道が見えない。 足跡は風に消され、草は一様に揺れている。 そのとき。 ──カラ……ン…… 金属のような、小さな音が耳の奥で鳴った。 次の瞬間、足元がぐらりと揺れる。 風ではない。地面の揺れでもない。 “何かがこの世界の向こう側から手を伸ばしてきた”ような感覚。 ぼくの体が、一歩も動けなくなった。 「や……め、て……っ」 声にならない悲鳴。 目の前の空気が歪んでいく。 それは“見えないものの影”だった。 形があるのに、境界がわからない。 風の中に、確かに“存在”だけが浮かんでいた。 ──きみは、“鍵”。 聞こえた気がした。 けれど、誰の声かはわからない。風が囁いたようでもあったし、自分の心が反響しただけのようでもあった。 ──きみの中に、“なにか”が眠ってる。 ぼくの手が、勝手に上がった。 その指先から、何かが生まれるような感覚。 光ではない。火でもない。 けれど、“世界にひとつだけ穴をあける”ような、見えない力が空気を割っていく。 風が、裂けた。 ほんの一瞬、風の流れが崩れ、見えなかった地平線が一瞬だけ露わになった。 風は吠えるように唸り、反発するように渦を巻いたが、 ぼくの中から放たれたその“なにか”の力に抗えなかった。 ──気がついたときには、ぼくは膝をついて、草の中にいた。 息が荒くて、指先がしびれている。 胸の奥がひどく熱かった。けれど、火傷のような痛みではなかった。 「……今の、なに……?」 誰もいないはずの草原に、ぼくの声だけが残った。 * * * その夜。 ぼくは草むらの小さな窪みに体を縮めて眠った。 何が起きたのかは、わからない。 けれど、“風”に飲まれかけたとき、ぼくの中でなにかが“目を覚ました”。 それは、魔法なのかもしれない。 けれど、ぼくはそう呼びたくなかった。 もっと、“自分の知らない何か”が、 この世界で目を覚ましてしまった──そんな気がした。 そしてそれはきっと、ぼくだけじゃなく、 この世界そのものにも影響を与えていく。 “風”の謎。 名前の喪失。 地図にない道。 そのすべてが、今夜、ほんの少しだけつながった気がした。


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