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第1部 第十五話

【それでも世界は回っている -OZ-】 第1章「目覚めの草原」 第15話「夢、風の向こうに」 ──風が、止んでいた。 土は静かに呼吸し、崩れかけた祠の空気はどこか神聖で、ひとときの静けさを与えていた。 その中心に、ドロシーはいた。 ぐったりとした身体は、ラセルの腕にすっぽりと収まっていた。 毛並みの柔らかい首筋から、火種の微かな光がまだ残っている。 「……君は、ほんまにすごいなぁ……」 ラセルはそっと息をついて、ドロシーの額のあたり──なだらかな毛並みの境を、指先でそっと撫でた。 イタチ獣人である彼に前髪はない。けれど、顔の輪郭から耳にかけての流れるような毛並みは、 とても繊細で、触れるだけで心が落ち着いた。 「よう頑張ったな……」 そのまま耳の根元へと指を移し、やさしく円を描くように撫でながら、 ふわりと額へ唇を寄せた。 ──魔力の暴走を鎮めた後には、願いを込めてキスを贈る。 それは土の一族に伝わる古いおまじない。 「おやすみ、ドロシーちゃん。夢のなかでは、穏やかであれ──」 そう言いながら、ラセルはそっとその肩を抱き寄せた。 * * * ドロシーは夢を見ていた。 空が高く、草が鮮やかで、まるで絵本の中にいるような不思議な景色。 どこからか、祝いの音が聞こえた。 丸い家々の間で、小さな獣人たちが楽しげに踊っている。 「ようこそ、ドロシー」 声が聞こえて振り返ると、そこには──ラセルに似た姿の男がいた。 けれど彼は農夫ではなく、長く光るローブをまとい、手には杖を携えた魔導師の姿。 「ここは“マンチキン”の国。君は、風と共にここへ来たんだよ」 「……風に……巻き込まれて……」 「そう。竜巻に家ごとさらわれて、ここへ落ちてきた」 彼はやさしく微笑みながら、こう続けた。 「君が落ちた場所は、“悪しき魔導師”が支配していた地だった。風を操り、名を奪い、心を曇らせていた存在。 だが君が現れ、彼は──倒された」 その時、ドロシーの手のひらに、何かが置かれた。 「これは……?」 銀糸で編まれた、繊細な手袋。 指先までぴったりとした作りで、手に取るとわずかに魔力の気配が感じられる。 「《銀の手袋》。君を守るもの。風に名を奪われぬよう、魂の輪郭を守る装具だ」 ラセルに似た魔導師は、静かに語った。 「家へ帰るには、“風の中心”へ向かわねばならない。 そこに君の帰路が、あるかもしれない」 ──“帰る”。 その響きが胸を突いた。 けれど、それよりも先に。 「……トト……」 口を突いて出たその名前。 思い出した、小さな命。 自分と一緒に風にさらわれた、大切な存在。 「……探さないと。トトを、探さないと……!」 ラセルの姿をした魔導師は頷いた。 「そう。それが、君の“旅の始まり”だ。 風に負けず、自分を忘れず、君の願いを叶えるために──」 言いかけた言葉が、風に溶けていく。 空が揺れ、音が遠ざかり、視界が淡く白に包まれる。 「ねぇ……あなたは……誰だったっけ……?」 夢がほどけていく。 けれど、最後の瞬間── ラセルの姿をした魔導師が、そっとドロシーの額にキスを落とした。 その温もりだけが、確かに残った。 * * * 「……トト……」 ぼんやりと呟いたその声に、風が一筋、草を揺らす。 ドロシーは、目を覚ました。 「……!」 胸が高鳴る。風の匂い。土の感触。 隣に、あたたかい重さ。 見上げると、ラセルがこちらを覗き込んでいた。 「……目ぇ覚めたか。おかえり、ドロシーちゃん」 その声が、現実を確かにしてくれた。 「……ありがとう、ラセル……ぼく……夢を見てた。すごく……不思議な夢……」 「そっか。なら、ええ夢やったんやな」 「うん……でも、もう……内容はあんまり思い出せない。 でも、はっきりしてることがある──」 ドロシーは、胸に手を当てた。 火種のぬくもりがまだそこにある。 「……トトを、探さないと。絶対に、見つける」 「せやな。それが、君の旅のはじまりや」 そう言って、ラセルは手を差し出した。 ──けれど。 「……っ」 ドロシーの手が、震えていた。 指が思うように動かない。力が入らない。 「……手が……」 「魔力の暴走の影響やろな。神経がちょっと混線しとる。焦らんでええ。 わいがついとる」 ラセルが、その手をやさしく両手で包んだ。 ドロシーは、かすかに頷いた。 「ありがとう、ラセル……」 風が、また草を揺らした。 ドロシーの旅が、本当の意味で始まるのは──このときからだった。 ──トトを探さないと。 その言葉が唇からこぼれた瞬間、 ドロシーは自分の“目的”に輪郭ができた気がした。 「……せやな。それが、君の旅のはじまりや」 ラセルの声は、変わらずやさしい。 彼がそっと差し出した手を見て、ドロシーは右手を動かそうとした──が、 「……っ」 やはり、思うように動かなかった。 けれど── 「ええんや、無理せんで。わいが支える」 ラセルが何気なく、自然な動作でドロシーの背中に手を添える。 その手つきがあまりにも落ち着いていて、情けなさよりも安心が勝った。 「……ありがと」 体を起こすだけでもまだ辛かったけれど、ラセルの手は的確に重心を支えてくれた。 彼の腕の中で、自分がようやく“今ここにいる”と実感できる。 風が、草原を通り抜けていく。 空は夕暮れに差しかかっていた。 「今日のところは、この近くで休もか。君も、まだ本調子やないしな」 「うん……そうだね。ちょっと、まだ歩くのは……」 ラセルは頷くと、近くの木陰を見やった。 「風が遮られる場所や。あの辺に焚き火を起こそ。夜は冷えるで」 「火……?」 「せや。ちょっと目を離すで、寝転んどき」 そう言ってラセルは立ち上がり、手早く枯れ枝を集め始めた。 その後ろ姿を眺めながら、ドロシーは改めて右手を見つめる。 火種の光が、胸の奥でふっと揺れた。 やがて火が起き、炎が柔らかく辺りを照らす。 「湯を沸かしといた。草の根の煎じ汁やけど、体にはええ」 ラセルが土器の器を差し出してくれる。 ドロシーは受け取ろうとして──ふと手を引いた。 「……やっぱり、無理だ」 「任せとき」 ラセルは、何でもないように、湯をすくってドロシーの口元に運んでくれた。 少し熱めの湯が、のどを通るたび、意識がゆっくり澄んでいく。 「……こうやって飲ませてもらうの、ちょっと恥ずかしいかも」 「ええやないか。わいは慣れとる。昔、祖父さんの介抱してたことあったさかい」 炎が小さく揺れる。 星がひとつ、空に浮かび始めていた。 「……ラセル」 「ん?」 「明日から……ちゃんと歩けるかな。トトを探しに行けるかな」 「行ける。わいが背中貸したる。君が行きたいなら、どこへでも連れてく」 ドロシーは顔を伏せた。 「……ありがとう。ほんとに、君がいてくれてよかった」 ラセルはそれに答えず──黙って隣に腰を下ろした。 そして、そっと肩を寄せる。 「寒くないか?」 「……少しだけ」 それだけで、ラセルの腕がドロシーの肩を包む。 寄り添った体に、心が揺れる。 言葉にするにはまだ早く、でも、言わなければ消えてしまいそうな何か。 ドロシーはそっと目を閉じた。 ──明日から、ラセルと一緒に探そう。 あの日の風にさらわれた、“大切な誰か”を。 そして、もう一度──帰る場所を見つけるために。 《第15話・完》


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