桜崎旭妃だったわたし(1)
Added 2024-03-29 08:41:09 +0000 UTC初めて訪れた北海道は、雄大という言葉がよく似合った。 「地平線がこんなに続いているなんて、すごいですね。東京では考えられません」 「俺は見慣れた景色ですけれど、旭妃(あさひ)さんにそう言っていただけるとうれしいですね」 わたしが言うと、運転している多賀雄(たかお)さんは楽しげに笑う。三月の北海道はまだ雪が積もっているのかと思っていたけれど、この地域ではそんなこともなかった。 夕方にはまだ少し早い午後のうららかな光の下、まだうっすらとだが緑の平原が広がっている。目的地である牧場も、こんな景色の中にあるのだろう。 わたしは桜崎旭妃。女子大に通っている二年生。明日、二十歳の誕生日を迎える。 そして隣でハンドルを握っているのは馬宮(まみや)多賀雄さん。二十六歳で、これから向かう競走馬生産牧場の跡取り息子。 と同時に、わたしの婚約者。 * 婚約はおよそ二年前。第一志望の女子大に合格したばかりのわたしにとってはかなり唐突に、両親にとっては長いこと色々悩んだ末に、決まったことだった。 そもそものきっかけは、わたしが生まれた時のこと。桜崎家と懇意にしている占い師の方がやって来た際に、生まれたばかりのわたしを見て言ったという。 ――二十歳になるまでに初体験を済ませておかないと、この子は一生、幸せだけど不幸なことになるよ。 占いの的中率が高く、父の経営するスーパーを関東ローカルながらいっぱしの企業に成長させるうえで大きく助けてくれた、それ以外にもオカルト的なことでお世話になったことのあるというその方の「予言」は、両親にかなり深刻に受け取られたようだった。 幸せならいいんじゃないかと思いつつも、同時に不幸でもあるというのはやはり見過ごせない。 ただ、二十歳前に経験するというのは、最近なら珍しいことでもない。自然に任せれば大丈夫だろうとも思っていたと。 けれど幼い頃からわたしは、色恋沙汰に対して引いてしまうところがあった。 興味や関心がないわけではない。しかし現実に自分がそういうことをするとイメージすると、腰が引けてしまう。それに小学校高学年からは、生理も経験して、生々しさに対する嫌悪感も募っていった。 それと同時に、がさつさを増していく同年代の男子を敬遠したい気持ちも強まり、わたしは中学受験をして中高一貫の女子校に合格した。 当然、六年間で男子との接点は皆無。 そして大学も女子大を選んだことで、親はいよいよやばいと考えたらしい。 その志望校に合格したことで彼らは覚悟を固め、今後のおよそ二年間でどうにかしてくれる、しかし責任感も地位もそれなりにある相手を大慌てで探し出し……馬主仲間の縁から馬宮家の多賀雄さんに白羽の矢が立ったということらしかった。 * いきなり婚約することになって、そんな話を聞かされて、わたしは動揺した。 だけど両親の気持ちもわかる。その占い師さんにはわたしも過去に会ったことがあり、無視できない人であるという印象があった。 なのでひとまず会ってみた多賀雄さんだが、こちらもいい方だ。わたしの両親の妄想めいた条件も聞いてくれて、その上で承知してくれて、しかもなるべくわたしの意思を尊重したいと言ってくれた。 これまでの二年間も急かすことなく、たまに上京してくれた時に会う際もじっくりと距離を詰めてくる感じで……わたしは、この人となら結婚したいという気持ちがどんどん高まっていった。 キスなら会うたびにするようになった。 でもその先は、まだ。 そしてここ数ヶ月は、互いの都合とか天候とかで会う予定がことごとく潰れてしまい。 誕生日を明日に控えた今日、彼が働く牧場を訪れるという形でやっと会うことができたのだった。 * 「今は馬の繁殖期に入ってましてね」 「まあ、なら、一番重要な時期なんですね」 よく考えてみると、わたしは生産牧場というものについてろくに知らない。多賀雄さんは仕事に熱心だけど、わたしは別に牧場に関わらなくていいと言ってくれて、それに甘えて何も勉強してこなかったわけだけど……少し申し訳ない気持ちになる。 「それでも本来なら、あなたに会いに東京に行くくらいの余裕は捻出できたはずなんですよ。ただ、予定外のことが起きまして」 「と言いますと?」 「エルフェングリーンという馬はご存じですか?」 「……スポーツニュースでたまに耳にしたような。すみません、物を知らなくて」 父は馬主だけど、わたしは競馬にまで関心があるわけではなかった。 「いえ、競馬をよく知らない旭妃さんでも覚えがあるくらい有名だということなんです。去年の年末、六歳で引退しましたが、血統としては大したことなかったのにデビューからずっと大活躍して、買い手がつかなくてそのまま馬主になったうちの牧場を大いに潤してくれました」 おかげで設備投資なんかも進んで、という多賀雄さんの顔は、言葉とは裏腹に少し沈んで見えた。 「この春からは種馬として、種付けを始めるんです。すでに予約がたっぷり入っています」 「なら、牧場は安泰なんですね」 わたしが言うと、彼の表情に浮かぶ憂いは深まった。 考えれば、何か問題が起きたから多賀雄さんは忙しくしているのだ。そしてその馬の話題が出たということは。 「……ちょっと、エルフェングリーンは選り好みが激しいようでして。まだ一頭として種付けに成功していません」 「まあ」 「適性検査は一応クリアしているんですけどね」 種付けができないとなれば、収入は得られないのだろう。牧場がその馬一頭に頼っているようなら、牧場全体が危ういことに…… 「俺たちも、この数年あれこれがんばってきました。他にもいい馬は出てきているし、すぐにどうこうなんてことにはなりません」 多賀雄さんは力強く言う。 「ただ、エルフェングリーンをかなり当てにしていたことは間違いないですね……」 * 牧場に着いた頃にはもう夕方になっていた。 真新しい建物がいくつか目につく。設備投資の成果であり、エルフェングリーンの種付けができないとなったら負債の源にもなりそうだ。資金繰りが苦しくなる時期というものはあると、父の仕事から少しは肌で感じた経験もある。 多賀雄さんのご両親などにもあいさつして、わたしは用意された部屋に落ち着く。 夕食や入浴を済ませ、多賀雄さんの部屋に行った。 裸になる。湯上がりで全身はほんのり上気していた。 さっき浴室の姿見に移した姿を思い出す。自分でも、悪くない身体だと思う。 身長は平均くらい、胸はやや大きく、ウエストはしっかりくびれていて、お尻はかなり大きい。安産型だと母に何度も言われた。 「旭妃さんは、本当に綺麗ですね。顔立ちが整っていて、でも愛嬌もあって、長い黒髪はものすごく美しい」 多賀雄さんの誉め言葉を素直に受け止める。 今から、この人とセックスをする。 親に言われたからであり、親も占い師に言われたからであり、けれど、それらについての心の整理はこの二年間で済ませておいた。 セックスに対する恐怖や嫌悪よりは、期待の方が大きい気がする。結婚まで処女でいたいという拘泥もない。いきなり妊娠は困るけど、ちゃんとコンドームは準備してもらえている。 だというのに。 多賀雄さんが裸になってベッドに上がってきた時、強烈な拒絶感があった。 彼の股間にそそり立つものに怯えた。 あんなものがわたしの中に入ってくる? 無理無理無理! 受け入れようと思った。受け入れなければいけないと思った。けれどできなかった。 多賀雄さんは、紳士的だった。彼からやめようと言ってくれた。 「そんな顔をしたあなたを抱いても、互いに一生引きずってしまいそうだから」 「でも……」 「二十歳になるまでにという話ですけど、だったら誕生日当日でもまだ間に合うんじゃないですか?」 示された逃げ道に、わたしは飛びついた。 明日の晩にはと思いながら、部屋に戻って眠りに就く。 朝、目を覚ましてカーテンを開け、陽射しを浴びながら、父からかつて聞いたわたしの名前の由来を思い出した。 母が出産を終えた直後、病院の窓から見た朝陽が素晴らしく輝いていたからこの名にしたのだと言っていた。 わたしはもう二十歳になってしまっていると、美しい朝陽に包まれながらもたまらなく不安になった。 * 朝食後、多賀雄さんにお仕事を見学させてもらえないかと申し出た。 今まで無関心でいることを許されていたけれど、それではいけないという気になっていた。昨夜、彼を受け入れられなかった負い目も関係していたかもしれない。 エルフェングリーンの件で忙しいのに余計迷惑になるだけかもと、言ってしまってから思ったが、彼は快く受け入れてくれた。 「いいですよ。親も、旭妃さんが戦力になってくれたら助かるからお前はしっかり教えてやれと言っていましたしね」 午前中からあちこちを見て回る。 父が十数年ほど馬主をしているから、小さい頃は競馬場や牧場へ行く機会もたまにあった。馬にも多少は慣れている。 それでも、そういう「お客」には見せない裏方の仕事というものは数多く、それらを多賀雄さんら牧場の方々はしっかりこなしているように見えた。 馬を世話する人々の姿は真摯で、美しく見えた。 「じゃあ最後に、話題のエルフェングリーン見学でもしてみましょうか」 夕方近く、多賀雄さんが言った。 「今日も種付けは……」 「失敗だったようです」 相手の雌馬たちはすでに遠ざけられていて、エルフェングリーンは一頭で牧場にぽつんと立ち、草を食んでいた。 色は青毛というらしい。これは馬の体毛特有の表現で、実際に青いわけではなく、全身が黒い。 他の普通の競走馬に比べると、背は高く体重もありそうだ。 「体高170センチ、体重520キロ。かなり大柄な方です」 体重はわたしの十倍くらいある。 「背は、多賀雄さんよりもさらに高そうですけど」 彼の身長は180センチ以上あるはずだ。 「馬の体高は前足部分で測るんですよ。人で言えば肩の辺りですかね」 頭の部分は含まれないということらしい。 柵を間に置きつつも、近づいていく。 雄の優れたサラブレッドは、首を上げるとわたしたちを見下ろした。 去年六歳、春に生まれたというからもう七歳になるのか。けれど二十歳のわたしよりよほど風格を感じた。生物の寿命には違いがあるからおかしくはないものの、不思議な気持ちになる。 その時、空が陰った。 見上げれば、黒雲がすごい勢いで流れてきて空を覆おうとしている。 「ちょっと嫌な雲ですね。雨の予報はありませんでしたけど、引き揚げましょ――」 その言葉を最後まで聞くことはできなかった。 猛烈な突風が、わたしを突き抜けるように吹き過ぎていった。 強い風なのに、妙な生暖かい風だった。 何かを持って行かれるような、異様な感触があった。 そう思った次の瞬間。 わたし自身がその風に運ばれるような感覚があった。 そんなわけない。かなり強い風ではあるけど、人間の身体を運び去るほどの強さじゃない。 そう思いつつも、わたしは確かに移動させられていて、遠ざかるわたしの視界には力を失ったように倒れ込む『わたし』の身体がいて、それは次第に小さくなっていって、それはつまり、わたしと『わたし』の距離が離れつつあるということで。 何かにぶつかって、わたしの移動は終わった。 ***
Comments
種馬って、存在自体がすごいですよね……。 「清楚な少女」のある意味対極に位置すると思っていて、前々からあれこれ考えていました。
茶
2024-03-30 23:37:22 +0000 UTCもしかして もしかして お馬さん。ヒヒ~ンですか? 野球も貧打でした。
丸井主将
2024-03-29 14:15:22 +0000 UTC