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桜崎旭妃だったわたし(4)

 牧場に着いてから三日目の朝は、馬房の中で目を覚ました。  と言っても、馬の眠りは浅い。常時敵に警戒しなければならない草食動物の習性か、ちょっとしたことで目が覚める。  精神的に疲れてはいたけれど、横たわる気にはなれなかった。うまく横になるにはどうしたらいいか、そこから立ち上がるにはどうしたらいいか、そんなことも昨日まで人間だったわたしにはわからない。  あるいは馬の本能に任せれば、視野や歩行や食事や排泄のように難なくできるのかもしれないけれど、人間からさらに遠ざかってしまうようにも思われて、わたしはそこまでする気になれなかった。  四本足で立ったまま浅いまどろみを繰り返し、夜が明けた。  人が来る前に、一つ試しておこうと思った。  馬房の床は、ゴムの上におが屑がたっぷりと敷かれている。ここになら文字を書けるかもしれない。  だが、前足のひづめを使おうとして、昨夜床のど真ん中に自分が落とした排泄物に気がついた。  それを避けるように四本の足を動かしながら文字を書くのは難しかった。液体がどれくらい広がってしまっているかよくわからないからなおさらだ。  それに、馬のひづめは字を書くのにあまり向いた部位ではないし、馬の骨格は四本足のうちの一本を浮かせて字を書くのにそれほど適したものでもない。満足に字は書けなかった。 *  朝食ももちろん草だ。わたしがそれを食べたり、横にある給水器から水を飲んだりしている間に、昨日と同じ女性の厩務員が床を掃除していく。  わたしが記した文字は、案の定、気づかれなかった。 「あれ?」  床の中央の排泄物を掃除しながら、首を傾げた彼女は昨日と同じ先輩を連れてきた。 「ボロの位置がいつもと全然違うんですけど」  もしかしたらこれはわたしの異変を気づいてもらえるきっかけになるだろうか。わたしは期待を込めて彼女たちを見る。 「うーん……気にはなるが、これまでと何か違ってた方がいい兆候かもな」  けれど先輩は首をひねりながらも簡単に片づけた。 「今日はカズサグリフォンとエチゴクラリネットが来る。どっちも大きな仕事だから、いいかげん成功してもらわないとな」  エルフェングリーンは種馬だ。そして、種馬の仕事なんて一つしかない。  わたし、人間の女子なのに。  今から雌馬とセックスさせられるんだ。  心の中の嘆きは、誰に伝わることもなかった。 *  昨日と同じように頭部に器具を装着されて、外へ引き出される。  四本足で歩きながら、考える。  これまでのエルフィングリーンと同じように、交尾を拒否すればいいんじゃないだろうか。  でも、ただの馬と違うわたしは、わたしがさせられようとしているこの交尾の意味を知っている。わたしがいつまでも交尾をしなければ、この牧場の経営が苦しくなる。わたしを牽いているこの厩務員さんの職場が、多賀雄さんが心血注いでいるこの牧場が、下手をすればなくなるかもしれない。  このまま元に戻れなければ、そしていつまでもわたしの正体に気づいてもらえなければ、多賀雄さんはただの他人だ。厩務員さんたちにしても、今のままなら馬と世話係以上の関係には発展しない。敢えて不人情なことを言えば、そんな相手のことなんてどうでもいいとも考えられるかもしれない。でも、今のわたしは引退した競走馬であり、種馬として期待されていて、そんなわたしが生きていくにはこの牧場はたぶん欠かせない。  競走馬の末路について、わたしはよく知らない。功績があれば穏やかに余生を全うできるだろう。けれど種馬失格となると、そしてそれによって潰れた牧場からどこかへ移されるとなると、その穏やかさがどれほど保証されるかは怪しい気がした。殺処分、馬肉、そんな単語が脳裏をよぎった。  だから、事情とか、損得とか、そういうものを考えられるわたしは、本来は人間であるわたしは、今から馬として交尾しないといけない。交尾して、雌馬を妊娠させないといけない。  だけどわたしは本来は人間で。二十歳になったばかりの女子大生で。セックスを経験していない処女で。  なのに雄の馬として、雌の馬と交尾しなければならないというこの状況は、あまりに狂っていた。  馬房を出て屋外に出る。牧草が生え始めた大地は若々しい緑に覆われてなだらかに広がり、その上をさわやかな風が吹き抜ける。  不意に、走りたくなった。  わたしは運動が得意ではない。家の中で本を読むのが好きな子だった。運動会なんていつも気が重かった。  なのに、走りたくてたまらない。幼稚園にも通う前くらい、とにかく全身を動かすのが楽しかった、そんな遠い遠い日々の記憶がほのかに思い出される。  これは、この身体が馬だからなのだろう。優秀な競走馬だからなのだろう。  走るために血統を掛け合わされて生まれたサラブレッド。それらが集まって繰り広げられるレースを戦い、何度となく勝ち名乗りを受けたエルフィングリーン。そんな身体にとっては、新たに身体を動かしている心が運動の苦手な記憶を引きずっていることなんて、問題にならないのだ。  あるいは、わたしの心が、馬の身体を御せるほど強くないということなのか。 「落ち着いて落ち着いて。今日はほんとにいつもと違うね」  厩務員さんが敏感に察してわたしをなだめにかかる。これも身体に染みついた反応なのか、なだめられると実際にわたしの気持ちは穏やかになった。 *  ガレージをさらに一回り以上大きくしたような建物の中に導かれていく。床は馬房と同様で、窓などは大きく光がしっかりと入る。  昨日、多賀雄さんに案内されて見学した、種付け場と呼ばれる場所だ。  まさかそこに、今日は当事者の馬として、しかも雄として入ることになるなんて。  中にはすでに何人もの人と二頭の馬がいた。片方が雌馬で、もう片方が当て馬だ。雌馬にすり寄ろうとしている当て馬を、人々が引きはがしている。  当て馬が去っていくタイミングで、風が前方の窓から吹き込んだ。雌馬を包むように吹く風が、わたしの鼻に届く。  その匂いを嗅いだ瞬間。  わたしは自分でも不思議なほど昂ぶった。  股間に熱が集中していく。  今この瞬間まで、ほとんど意識せずに済んでいた存在。軽く揺れるのは感じていたけれど、後足に当たるような長さではなく尻尾ほど大きくもないから、自分が雄になっていると知ってからもあまり気にせずにいられた存在。  ペニスが、どんどん巨大になっていった。

Comments

コメントありがとうございます。 期待してくださってありがとうございます。本番がんばります。 字を書くのはギリシャ神話でもあったようですし(牛に変えられたイオという少女)、馬房について調べてみると床に書けそうですし、書かせないわけにはいきませんでした。むしろそれを読まれないための理由づくりに苦労したというか。 旭妃の場合は(他の少女の場合でも大多数はそうかもしれませんが)、よほどの事情がなければ入れ替わり翌日にこんなことできるわけないよなということで。きっかけは大事ですよね。

いよいよですね。 馬の交尾を「いよいよ」って 期待してしまうのって・・・。 おもしろい小説です。 冒頭の字をかけるのでは?という表現も 実はその立場になったらそう考えるのではと思っていました。 牧場の経営状況や人間関係など世話してくれている方々のことも 少しはわかってしまうというのも 本人的には重要でしょうがいざやり始めたらいい言い訳にもなりますよね。 「だって仕方ないじゃない。」とか思いながら 腰を振るのでしょうか? 馬って腰振りますよね?  今後の展開 楽しみです。 素敵な作品 ありがとうございます。

丸井主将


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