「───というわけで、また君の担当をすることになった」
あの闘いから数日、俺は再びナツキの前に立っていた。
上司の命令を無視してナツキを助けたことで、リ・ガーズをクビになることも
覚悟したが、どうやらお咎めなしということらしい。
ナツキは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにいつもの溌溂とした表情になった。
「やったじゃん!君のサポートなら安心」
「……よろしく頼む」
軽口のやりとり。けれど昨日の重みは胸に残ったままだ。
“助けるな”という命令を破って、俺は彼女を助けた。その判断が何故か見逃された理由も、喉の奥に引っかかっている。
無線が鳴った。
「こちら管制。B3区商店街にて白い霧の異常発生。至急、現場へ。繰り返す──」
◇
俺はナツキを乗せて、霧の発生現場へと急行する。
「普通じゃないね」
「あぁ、間違いなく魔獣の仕業だろう」
近づくほど、街の輪郭は薄紙で包まれたみたいに曖昧になっていく。
色鮮やかな看板も、通りの人波も、乳白色の靄に飲み込まれていた。
人々が道の真ん中で立ちすくんでいるのがかすかに見える。咳き込み、泣き声が混じり、クラクションの音も霧でかき消されるようだ。
窓を少し開けると、ひやりと湿った空気が滑り込む。
肌にまとわりつく冷気。鼻の奥に微かな甘さ。夏の終わりの匂いに似ていて、どこか化学の尖りが混ざっていた。
「これじゃ避難もままならない。視界は二メートル、いや一メートル台だ」
ナツキは拳を握り、前を睨む。
「……行くよ。人が中に閉じ込められてる」
「待て。無策で突っ込むのは危険だ。まず霧の性質を確かめる」
「危険って……!」
彼女の声に熱が乗る。
「閉じ込められてる人たちはどうするの! 早く助けてあげなきゃ!」
俺はハンドルを握る手に力を込めた。
「それはわかってる。ただ、きちんと分析をしてから──」
「じゃあ、あたしが中に入る! 君は外で分析して!」
ナツキの声が段々厳しくなる。けれど、考えなしにナツキを行かせるわけにはいかない。
「ダメだ。離れるのは危険だ」
「……君は慎重すぎ。ほんとに人を助ける気、あるの?」
そのひと言は針みたいに胸に刺さった。
息が一瞬止まる。俺は言い返す。
「あるに決まってる! でも、ちゃんと状況を確認してからじゃないと───」
けれど彼女は首を振り、ドアノブを掴む。
「……ごめん。あたしは待てない!」
バックルが跳ね、ドアが開く。白い靄が彼女を飲み込んだ。
「ナツキ!」
彼女は霧の中へあっという間に消えてしまった。
◇
靄は音の角まで丸くする。
「出口はあっち! 転ばないように気を付けて!」
ナツキの声が、布越しのように遠い。応える誰かの声は方角が定まらない。
足音は吸い取られ、一歩先の地面の確かささえ曖昧だ。
俺は端末を取り出し、センサーを走らせる。湿度は飽和し、気温は平常よりわずかに低い。
粒径は水滴にしては細かい。揮発性化合物の値が跳ねている。
(水だけの霧じゃない。何かが混ざってる)
鼻の奥の甘さは消えず、舌の上に薄い苦味が残る。
白の底で陰影が濃くなった。背丈は成人の倍。背嚢みたいな器官が脈打ち、白い息を含んだ靄を吐き出している。
表面はぬめり、触手のような突起が音もなく空を探る。
「あれが原因か……」
ナツキの気配は、その影の手前で止まっていた。
霧の奥に、彼女の肩と腕の輪郭がぼんやり浮かぶ。
構えていたはずの拳は力なく下がり、足取りはふらつき、肩が小刻みに震えている。
荒い息が霧を揺らし、動けなくなっているのが一目で分かった。
背後で、触手の影が持ち上がる。振り下ろされる寸前だ。
「ナツキ、伏せろ!」
俺は反射的に飛び込んだ。
左手でナツキの手首を掴み、全力で引き寄せる。
右腕を彼女の背に回して胸元へ抱きかかえ、同時に自分の体を敵に向けて投げ出す。背中を盾に、地面へ落ち込む角度を選ぶ。
――バシィィン!
触手が俺の背中に直撃した。
石畳に叩きつけられるような衝撃が背骨を駆け上がり、肺の空気が一気に押し出される。
「ぐっ……!」
視界が白く弾ける。それでも腕の中のナツキだけは離さない。
そのまま横転して壁際へ滑り込み、片膝で体勢を作り直す。背後で触手が空を裂き、石を抉る音が響いた。
ナツキは俺の腕の中で震えていた。
「なんで……君が……! 怪我してるじゃん……!」
俺は荒い息を吐きながら、彼女をまっすぐ見た。
「……言ったろ。俺は人を助けたい。けど、それだけじゃない」
「……え?」
「お前もだ、ナツキ。お前が無事でなきゃ、この街は救えない」
声はかすれていたが、胸の奥の熱は揺るがない。
ナツキは目を見開き、俯く。肩がひとつ震え、唇を噛む。そして、顔を上げたときには瞳に強い光が宿っていた。
「……わかった。今度は君に合わせる」
「助かる」
背中の痛みが波のように寄せては引く。まだ動ける。動くしかない。
◇
端末をもう一度操作する。
湿度100%、温度わずかに低下。
粒径は微細、TVOC(揮発性有機化合物)の値が高い。
鼻腔にまとわりつく甘い匂い。舌に残る薄い苦味。
(これは水だけじゃない……体液由来のエアロゾルだ。なら──熱に弱いはずだ)
確信が欲しい。
俺は腰のポーチから赤いフレアを引き抜き、ピンを抜いて霧へ投げ込む。
シュゴォッ!
地面で燃え上がる炎が赤光を放ち、瞬間的に周囲の霧が裂けた。
熱の渦に押しのけられるように、視界がぽっかり開く。
看板の文字や倒れたベンチの影が、輪郭を取り戻す。
「……やっぱり。熱に弱い」
俺は拳を握った。これで決定的だ。
見上げる。
商店街の屋根沿いに並ぶ非常用換気ファン。
火災時、煙を吐き出すための古い設備。普段は止まっている。
ビルの裏手にはボイラー室。蒸気配管がファンのダクトと近接しているのを、以前の地図更新で把握していた。
(換気ファンを起こし、蒸気をダクトへ流し込む。冷えた霧は一気に薄まって、視界が戻る)
「ナツキ。二十秒稼いでくれ。上の換気ファンを叩き起こして、蒸気を送る」
「二十秒……了解。今度は、君に合わせる」
彼女は霧の縁で一度だけ拳を握り直し、深く息を吸った。先ほどの焦りは、もうない。芯が通った顔だ。
俺は裏手へ走り、シャッターをくぐってボイラー室へ。
金属と古い油の匂いが鼻を突く。息が重くなり、喉の奥に苦味が残る。
錆びついた配電盤の蝶番を開くと、ギィィと嫌な音が室内に響いた。
震える指先で非常電源のブレーカーを一つ、二つと押し上げる。
赤いインジケータがぱちりと点灯し、闇に小さな灯りが生まれる。
「……よし」
息を吐き、次に蒸気配管のバルブをひねる。金属の擦れる音とともに硬い手応え。
流れが切り替わり、薄い蒸気が頬に当たって熱を伝えた。
残るは換気ファン。止まったままの羽根に手をかけ、カバーを強引にこじ開ける。
粉じんが舞い、額の汗にまとわりつく。固まった軸に指を掛け、全身で力を込める。
――重い。びくともしない。
歯を食いしばり、さらに押し回す。
ギギッ……ギィィンッ。
ついに軸がわずかに回り、次の瞬間、羽根が低い唸りを上げて回り出した。
リレーが跳ね、ファンが低い唸りで目を覚ます。
通信ボタンを押した。
「いくぞ。三、二、一──開放!」
屋根沿いの換気ファンが一斉に吠えた。
ボイラーで温められた熱い空気と薄い蒸気が、ダクトを抜けて商店街へ押し出される。
通路に沿って温度の壁が走り、白い霧がほどけるように裂け、乾いた“サッ”という気配が連鎖していく。
「──晴れた!」
視界が一気に戻る。
色を失っていた看板が、本来の派手さを取り戻し、逃げ遅れていた人々の顔に驚きと安堵が灯る。
白の中央、むき出しになった魔獣。
背嚢の器官に赤黒い脈が走り、そこだけが生き物の鼓動みたいに波打っている。
今なら見える。今なら届く。
「ナツキ、背嚢だ。そこを狙え!」
「了解!」
ナツキが地面を蹴る。
濡れた石畳を確かに踏み、身体は矢のように直線を描く。
さっきまで震えていた肩は、もう静かだ。視界がある。目的地がある。
筋肉の収縮が、恐怖の代わりに集中で繋がっていく。
拳が胸の前で一度だけ低く唸り、青白い光が宿る。線になって伸び、狙いを一点に束ねる。
「――インパクト・コア・ストライク!」
ドシュゥゥゥウンン!!!
閃光が背嚢を貫いた。
鈍い破砕音。
赤黒い脈が砕け、波打っていた鼓動が止む。
魔獣は空を掴むみたいに触手を伸ばし、次の瞬間、自分の影に引きこまれるように崩れた。
最後に残った白は、熱の流れに撫でられて静かに消えた。
◇◇◇
音が戻るまで、少し時間がかかった。
咳き込む声、「助かった」という安堵、泣いていた子どもが泣くのを忘れて口をあける間。
人々は距離を取り直し、出口へ向かって歩き出す。
ナツキは膝に手をつき、肩で息をしながら顔を上げた。
頬に貼りついた短い髪を指で払って、俺を見る。
「……ありがと。君が霧を晴らしてくれなかったら、あたし、負けてた」
「役割分担だ」
俺は背中の痛みに眉を寄せ、無理やり笑う。
「俺が分析する、お前が決める。それだけだ」
「うん……」
「変だよね。ずっと一人でやってきたのに、今は──君がいないと困るなんて」
「そういう日もある」
言いながら、胸の奥でわだかまりが一枚はがれ落ちるのを感じた。
彼女と俺の気持ちが同じ歩幅になった。それだけで十分だ。
避難の誘導が落ち着く頃、空は正午の透明さを取り戻していた。
風が吹き、遠くで風鈴が鳴る。季節の残響みたいな音が、さっきまでの異常を現実へ戻していく。
ナツキが空を見上げ、くるりと俺の方へ向き直る。
頬の湿りを親指で拭って、少しだけ照れくさそうに笑った。
「ねえ……」
「うん?」
「……次は、最初から一緒に考えよう。突っ走る前に。……そのほうが、もっと守れる」
「俺もそう思う」
右手を差し出す。
彼女は一拍置いてから拳を軽く当ててくる。小さく、はっきりと鳴る音。
「行こう、相棒!」
「ああ」
同時に一歩を踏み出す。
さっきまで白に呑まれていた通りが、人の気配で満ちていく。信号が青に変わり、世界がまた流れ始める。
背中の痛みはまだ残る。けれど、それも悪くない。あの瞬間、自分が何を選ぶのか、もう迷わないと分かったからだ。
建物の隙間にわずかに残る薄い白を、振り返らずに通り過ぎた。
次も、きっと大丈夫だ。一緒なら、乗り越えられる。
そう思えるだけで、前へ出る足取りは確かだった。