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パナパウから来た少女 〜クレンターニャの秘術〜 #2 エレアとエヴラン

 ラグラウス邸内の一室……自身に与えられた執務室で、エレア・アクシムは控えめな姿勢を保ちながらも、その冷静な目でエヴラン・ラグラウスを見つめていた。  漆黒の髪は肩のあたりでゆるやかにカールし、滑らかに揃えられた前髪の下で、エメラルド色の瞳がまるで相手の心を深く見透かすかのように落ち着き払っていた。  クレンターニャ人特有の塗り込めた陶器のように白い肌は穏やかな光を帯び、目元には控えめな優雅さと知性が漂っていた。  その整った面立ちとすっきりした佇まいは人に感銘を与えるものであった。  一方で彼女の冷静で知的な眼差しは、まるで柔らかな包み込む光の中に鋭い観察力を秘めているようであり、対する者が思わず居住まいを正さなくてはならないような迫力を有していた。  慎ましい仕事着を身にまとってはいるが、彼女の仕草のひとつひとつには使用人とは思えないほどの高い気品があり、その存在はエヴランにとって畏怖すら覚えるほどだった。  実際、エレアの才能は凄まじいもので、元々はエヴランの父親であるレオナー・ラグラウスが近頃採用した使用人の一人に過ぎなかったにも関わらず、彼の不在中の邸内の取り仕切りにその才能を如何なく発揮したことにより、瞬く間に家宰の地位を手にするに至っていた。 「エヴラン様……」  エレアはわずかにためらうような調子で切り出した。 「……実は私、先日、書庫の奥で偶然エヴラン様のお姿を見かけたのですが……」  エヴランはその言葉にぎくりと反応し、思わず視線を外した。  心臓が跳ね上がるようだった。  隠れて行っていた自分の行為をエレアに見咎められたことを悟ったものの、言葉を返すことができない。  ただ手のひらがじっとりと汗ばんでくるのを感じるだけだった。  エレアは静かに間を置き、それから囁くような調子で言葉を続けた。 「あれはたぶん……ずっと前にお勤めだったサミラのメイド服……違いますか?」  その声はあくまで穏やかで、責める気配は一切感じられなかった。  しかし、それでもエヴランの胸には重い羞恥がのしかかった。  だがエレアがその場を目にしていたとしても、メイド服がずいぶん前にラグラウス邸を去ったサミラのものである事など知りようがないはずだ。  エレアは一体どこまで知っているのだろうか。  押し黙ってうつむくエヴランをしばらく見つめた後、エレアは彼を見つめたまま静かに言葉を続けた。  「……サミラはエヴラン様の乳母がわりだったと聞きました……エヴラン様はサミラのことを、きっと特別に思っていらしたんですね?」  その言葉に、エヴランはわずかに顔を上げた。  エレアは普段とは異なる優しい眼差しでエヴランのことを見つめていた。  その眼差しに促されるように、エヴランは言葉を絞り出すようにして呟いた。 「……ああ。サミラは……僕が小さい頃、いつも側にいてくれた……」  エヴランの脳裏に、幼い自分を優しく抱きしめてくれた懐かしいサミラの姿が浮かんだ。  ログレスの貴族らしく厳格な暮らしを送る中で、エヴランに唯一、無条件の温もりを与えてくれた存在……それがサミラだった。  エヴランの中には、その優しさがいつしか憧れとして根を下ろしていた。 「サミラが側にいてくれれば、何も怖くなかった……」  エヴランは小さな声でそう告白する自分自身に軽い驚きを覚えた。  どうして自分はエレアの前でこんなことを口にしているのだろうか。  サミラに対して抱く憧憬の気持ちを口にした瞬間、エヴランの胸に重くのしかかる羞恥が一層強くなり、彼の顔を赤く染めていく。  エヴランの言葉をしばらく静かに受け止めていたエレアの表情が引き締まった。  瞳が鋭く細められ、エヴランの心の奥底までも見透かすような視線が投げかけられる。  「……それほど大切なサミラへの想い出を、どうしてあのような形で思い返そうとなさったのですか?」  その問いに、エヴランは息をのんだ。  彼がしていたことを、エレアは全て知っているのだ。  エヴランは必死で視線をそらそうとしたが、エレアの瞳が彼を捉えて離さなかった。  エレアは口元に控えめな微笑を浮かべながら言葉を続けた。 「サミラが残したメイド服に触れ、身に纏うことで……エヴラン様はサミラを……彼女のメイド服の感触を……どのようにお感じになったというのですか?」  エレアの穏やかな口調は少しも変わらなかったが、その言葉の奥に潜むものはエヴランの胸に鋭く突き刺さった。  エヴランの行った行為は、ただ去っていったサミラを慕い、追憶するという言い方で済むものではない。  いや、むしろ、彼のしたことはそういう思い出自体を汚すような行為ではないか。  エレアがそんな風に自分を責め立てているかのようにエヴランには感じられた。  それだけではない。  まさか彼が胸のうちに密かに抱いていた衝動までもが知られてしまっているのではないか……そんなありえないような疑念までもが巻き起こり、こみ上げる罪悪感と共にエヴランの心にのしかかってくる。 「おそらく……ただの憧れだけではないのでしょう……?」  エヴランは完全に答えに詰まり、思わず視線を落とした。  喉の奥がからからに渇き、息苦しさを感じる。  エレアの言葉は、自分自身でも認めたくなかったその衝動を、的確に言い当てているかのように思えたからだ。  その問いかけはまるで、エヴランの心の奥にあるそのことを、何としてでも抉り出そうとしているかのようだった。 「……何も……ただ、あれは……」  エヴランはかすれた声で何かを言いかけたが、まったく言葉にならなかった。  彼の抱いていたサミラへのほの甘い思い出は、彼女が去ったことでどうしようもなく膨らみ続け、いつしか彼自身の手に余るまでになっていた。  エヴランはそのことを自覚しながら、それをはっきりと認めることに対する強い抵抗があった。  エレアは問いかけに対するエヴランの反応をほんの少しも見逃さしている様子はない。  優しげな表情のまま、エレアは静かに言葉を重ねた。 「エヴラン様……あなたのその気持ちは、実のところ否定すべきものではないのかもしれません……ただ……」  エレアは少し間を置いて、エヴランの表情をじっと見つめた。 「ただ……もしもそれが、他の誰かに知られたら……その時、エヴラン様はどうなさるおつもりなのですか?」  その一言に、エヴランの顔から血の気が引いた。  エレアの指摘……自分のしたことが他の誰かに知られるかもしれない……そのことへの想像が、彼の心に恐怖と羞恥をもたらした。  誰にも話すことができない秘密、何があろうと隠しておきたい思い、それが外に漏れ出るかもしれないという危機感が、エヴランを追い詰めていった。 「……待ってくれ……それは……」  エヴランはどうにかして言葉を絞り出そうとした。  しかし、エレアの冷静な眼差しは、まるで彼の言葉を封じ込めるようだった。  エレアは、言葉に詰まるエヴランの怯えたような表情を見て、微かに微笑んだ。  それからまるで子どもをあやすかのように優しく、そして包み込むような眼差しを彼に向けた。 「どうか恐れないでください、エヴラン様」  エレアの声は柔らかく響き、冷ややかな空気に染み渡るようだった。 「エヴラン様のお気持ちを否定したり、為したことを責めるつもりはありません。私はただ、おいたわしいと思ったのです……エヴラン様が苦しんでいらっしゃるその気持ちを、自然に……そして正直に解き放つ……そのお力になりたい……そう、思ったのです」  エレアの意外な言葉にエヴランは戸惑いを覚えた。  目の奥に隠しきれない疑問と動揺の色が浮かんだ。 「正直に……?」  かすれた声でエヴランは問い返した。  その声には彼自身も自覚していない一抹の期待が潜んでいたかもしれない。  エレアは頷き、静かに口を開いた。 「ええ、エヴラン様。サミラがあなたに残していったものを……それを、解き放つ方法があるのです……それこそ、エヴラン様が真に望まれていることではありませんか?」  エレアの言葉に、エヴランは抑えきれない高鳴りをその胸に覚えた。  自分がずっと心の奥底に抱えてきた、誰にも言うことのできない思い。  狂おしいほど満たされたいと願う秘めた思い。  それをエレアは理解しているのだろうか?  そして、その気持ちを叶える方法が本当にあるというのか?  エレアはまるで秘密を囁くように、静かに続けた。 「サミラへの思いを、ただの憧れだけで終わらせなくても良いのですよ、エヴラン様。もし……それを望むのであれば……」  エヴランは息を詰め、エレアの言葉を待った。  その視線は羞恥と期待が入り混じった不安な光を帯びながら、エレアの冷静な瞳にじっと注がれていた。  彼女はエヴランの反応を窺いながら、言葉を続けた。 「……そう、例えば……エヴラン様がサミラのような存在になれるとしたら……」  慎重に言葉を選び、エレアはエヴランの心を探るようにそっと、繰り返した。 「エヴラン様が大切に思われているサミラの存在を、ご自身の身をもって体験する……そんなことができるとしたら……エヴラン様はどうなさいますか?」  エレアの言葉は、ほんの囁きのようでありながら、エヴランの心に重く響いた。  エヴランが密かに憧れていたサミラの姿、彼にとっての永遠の理想……もしそれを、自分自身のものとして体験できるのであれば。  エヴランは戸惑い、疑いながらも、エレアの教示に対して抗いがたい魅力を感じ始めていた。  喉が渇き、視線は揺らいでいる。 「どういう意味だ……?」  そう言ってエヴランは必死に平静を保とうとしたが、その声はわずかな震え上ずっていた。  エレアの言葉が、彼の心の深くに触れていることは否定できなかった。  エレアの視線はエヴランの表情を一瞬も見逃さないように見えた。  そうでいながらエレアはあくまでもその顔の微笑みを絶やすことはなく、柔らかな声も少しも揺らぐことはなかった。 「エヴラン様、あなたが望まれているものは、サミラに憧れ、決して届くことのないその影を追い続けることではないのです。真に望まれているのは……エヴラン様ご自身がサミラのような存在になりたい……そんな風に、お考えになったことはないのですか?」  エヴランは、エレアの言葉によって胸が激しく揺さぶられるのを感じた。 「サミラのような存在に……」  その言葉が脳裏を駆け巡り、否定したい気持ちと、奥底でくすぶる期待が交錯する。 「僕が……サミラのように……?」  エヴランはかすれた声で問い返した。  自分自身の声の響きが、まるで自分の中にある隠された思いを初めて形にしたように思えた。  エレアはそんな彼を見つめ、優しくうなずいた。 「ええ、エヴラン様。あなたが心の奥底でどんな望みを抱えていらっしゃるのか、私には良く解っているつもりです。その想いを実現することなどできはしない……恐らくはそのようにお考えでいらっしゃるのでしょう」  エヴランは目をそらし、口を結んだまま答えられなかった。  エレアは彼の心の中を手に取るように見抜いている。  そして、まるで手を差し伸べるようにして、エヴランのことを巧妙に誘導しているのだ。 「けれども、もしその想いを、実現できる方法があるとしたら……」  エレアはさらに一歩、彼の心に踏み込む。 「それが、誰にとっても望ましい結果をもたらすのだとしたら……あなたはそれを試してみたいと思いませんか?」  エヴランは何かを言おうとしたが、言葉が喉の奥で引っかかり、言葉が出ない。  抗いがたい強烈な衝動が心の奥底から湧き上がってくる。  エレアの目には鋭い光が宿っている。  彼女の申し出にエヴランがどのように応じるのか……それをはっきりと見極めようとしているのだ。  エヴランは、湧き上がる衝動をもはや抑えきれなくなっていることを感じた。  それでも最後の一線で踏みとどまるかのように、エレアに問いかけた。 「……本当に……そんなことができるのか?」  エレアはエヴランの問いを引き出したことで、静かに満足げな表情を浮かべた。  エヴランが発した疑問……それこそが、彼自身に芽生えた期待の証であり、彼自身を己の内面に向き合わせる第一歩となることを彼女は知っていた。  「ええ、もちろんです。ですが……エヴラン様が本当に心から望まれるのなら、そのために準備を整えるのは決して難しくはありません」  エレアの声はあくまで平静だった。  その声の調子はまるで既に決まっている運命を語るかのようだった。  エヴランは黙ったまま、エレアの目をじっと見つめ返した。  彼女が本当にそれを実現できるのか、はっきりと疑いを抱いている。  けれどもエヴランにはもはや心の奥底に芽生えた衝動が抑えきれなくなっていた。  ふと頭をよぎった一抹の不安から、エヴランはかすれた声で言った。 「……誰にも、僕がしたことを……言わないでくれ」  その言葉に、エレアはわずかに微笑み、静かにうなずいた。  その頼みは、エヴランが彼女の提案を受け入れた証のように響いていた。 (つづく)


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