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パナパウから来た少女 〜クレンターニャの秘術〜 #6 ナシラの外出

 アパートを出てローダン地区の通りに足を踏み入れると、ナシラは室内の空気とは異なる雑踏のざわめきに圧倒されるような感覚を覚えた。  路地には商店露店が立ち並び、どの店先にも様々な品々が所狭しと並べられている。  それらの品々の多くは、ログレスの海外領土を始めとして、世界中からもたらされる物産であった。  ラグラウス家の資本は海運事業にも多く投下されているから、こうした物産がどういう経路でログレスにやってくるのかということを、ナシラはそれなりに知っている。  だが、今のナシラにとってそういった知識は何の役にも立たない。  人々の話し声や活気が四方から押し寄せる。  ナシラの心臓は早鐘を打っていた。  周囲の視線が全て自分に集まっているようなそんな錯覚を覚える。  イムレはそんなナシラの様子に気づいたのか、そっと彼女の腕を取った。  ナシラはイムレの手が、そして上体が柔らかく自身に触れるその感触に、どきりとした。  雑踏のざわめきが遠ざかり、密着してくるイムレの体の感触だけが浮き上がるように感じられる。  イムレは緊張するナシラの顔をのぞき込み、安心させるように微笑んだ。 「焦らなくていいわ。まずはゆっくり歩いてみましょう」  ナシラはイムレに腕を引かれながら、ぎこちない足取りで雑踏に足を踏み出した。  恥ずかしさで肩が自然とすぼまり、ずっと身を小さくして歩く。  その姿は、周囲から見ればどこか不安げで、守られることを求めているかのように映っているだろう。  ナシラが身にまとっているのは、パナパウ特有の模様が刺繍された南国の海のように鮮やかな青色の布のワンピースだった。  ナシラのしなやかで均整のとれた肉体を柔らかく包み、その体の動きに合わせて静かに揺れるその服装は、雑踏の中でもひときわに目立つ。  肩から腰にかけてつくられるゆるやかなラインが、成熟しきらない少女の可憐さを一層引き立てていた。  人波を縫うようにして歩みを進めると、周囲の視線が自分に向けられているような感覚が再び強まってくる。  だが、今度はそれは錯覚ではない。  通りすがる人たちの多くが、確かにナシラに視線をちらと向けていた。  それどころか、無遠慮極まりなく、じっと視線を向けてくる者すらいる。  何かおかしい点でもあるのだろうか。  それが気になり、ナシラはいたたまれなくなってたまらずに歩みを止めた。  イムレがナシラ振り返り、その様子に目を留めた。 「どうしたの?」 「……あ……あの……」  イムレは、小首をかしげてナシラの言葉を待った。 「私……どこか……おかしくない?……」  周囲が目に入らぬように下を向き、真っ赤な顔をして、か細い声でそう尋ねるナシラの様子をしばしの間見つめ、イムレは何かに思い至ったようであった。 「ナシラ、大丈夫よ。みんな、あなたがきれいだから見てくるのよ」 「え……?」  ナシラは頬を染めたまま当惑した表情を浮かべてイムレの顔を見返した。 「本当よ。だから勇気を出して慣れていかないと。あなたみたいな可愛い子には、必要なことよ」 「そ……そんな……」  ナシラの心は一気にざわついた。  驚きと羞恥、そして確かに歓びの感情が一度に押し寄せてくる。  ナシラは、恐る恐る顔を上げ、周りを見渡した。  心臓がこれ以上ないほど高鳴っていた。  イムレの指摘は思いもよらぬものであった。  だがそういう風に言われてみると、通行人がナシラに向ける視線は、嫌悪や拒絶、好奇の眼差しという感じのものではないように思えた。  ナシラが不安な面持ちを残しつつも顔を上げたのを見て取り、イムレは優しくナシラの手を引いた。 「さあ、ナシラ。ここで、あなたが自分の役割を果たせるってことを、私にも、そしてあなた自身にも証明してみせて」  イムレに手を引かれ、ナシラはゆっくりと歩み始めた。  細い肩は微かに震え、視線もともすればうつむきがちになりながらイムレの側に寄り添うようにして雑踏を進んでいく。  だが、歩みを進めるうちにナシラの表情から少しずつ不安の色は消えていった。  いつの間にかその替りにナシラの顔に浮かんでいるのは、誇らしさと羞恥、そしてほんの僅かに陶酔が入り混じった表情であった。  背筋は伸び、足運びからも不安な様子は消えている。  どうやらナシラは周囲の視線が自身の可愛らしさに対する賞賛であるということを、確信し始めたようであった。  そして、それだけではなく、おそらくはそのことに喜びを覚え始めているということに疑いはなかった。  その様子の変化を見てそのことを察したイムレは、少女という立場へのナシラの順応の早さに舌を巻いた。  そして、いよいよ次のステップに移る頃合いだと、判断した。  「……じゃあ、あの店に行ってみましょうか」  広場に出ると、イムレはところ狭しと並ぶ露店のひとつを指さした。  その露店には、色鮮やかな果物が並んでいる。  店先に立つと、顎髭を生やした厳つい中年の店主の目が品定めをするように一瞬向けられた。  ナシラ思わず身をすくめた。  心臓の鼓動が速くなっていく。  イムレはナシラをそっと前に促し、耳元で静かに囁いた。 「思い出して。ログレス語を話すときは、パナパウ訛りを意識して、少しカタコトで話すのよ。慌てず、ゆっくりでいいの」  ナシラは小さく頷き、息を整えながら店先の品々に目を向けた。  木の箱に並べられた山盛りの果物から、甘酸っぱい香りが漂っている。  イムレは緊張するナシラの肩に手を置くと、パナパウ語で優しく促した。 「大丈夫よ。少しずつでいいから、勇気を出して話しかけてみて」  意を決して、ナシラはぎこちなく口を開いた。 「あの……これ、どれくらい……する、ですか?」  拙くあどけないその声はわずかに震えていた。  素朴で健気な雰囲気が満ち溢れて聞こえる。  店主はナシラをぎょろりと一瞥した後、仏頂面を綻ばせた。  目を細め、先程までとはうって変わった親しげな様子でナシラの発した問いに答える。 「これかい?これなら、ちょうど今いい値段で出しているところだよ」  ナシラは気難しそうな店主の思いもよらない愛想の良さに戸惑いながらも、少しだけ緊張が解れていくのを感じた。  少なくとも、ナシラの見た目に対して、店主が何か不審を抱いている様子はまったく感じられない。  ナシラは小さく頷くと、顔をあげ視線を店主に向けた。 「見ても、いい?」  ナシラはそう店主に告げると、少しだけ前に進み出た。  ナシラは、先ほど自分が指差した果物……タマアをじっと見つめ、ふと手に取った。  つややかな深緑の皮に覆われた楕円形の果実だ。  日持ちがする上、栄養価が高く、パナパウでは主食のような位置づけにある。  ログレスではさほど食べられるものでもないが、ナシラには幼い頃、サミラがこれを使って作った料理を振る舞ってくれた記憶がかすかに残っていた。  タマアが放つわずかな酸味を帯びた独特な香りが、ナシラの胸のほのかな追憶を刺激した。  とはいえ、手にとってみたからといって、品物の良し悪しがナシラに判るはずもなかった。  かろうじて腐ってはいないことが判るくらいである。  もちろん価格の相場に至っては全く見当もつかない。  日常の買い物や値段交渉を自分で経験したことがないのから、当然である。  店主にじっと視線を向けられ、ナシラの緊張が再び増していく。  ナシラはどうすれば良いか分からず、視線を伏せた。  と、ナシラの背中がちょんと押された。  横にいるイムレが、優しい微笑みを浮かべてナシラのことを励ますように見ていた。  ナシラは勇気を振り絞り、もう一度店主の顔を見て、言葉を発した。 「あの、タマア……もう少しだけ、やすく、できる……ですか?」  店主からはナシラの表情とその拙い言葉遣いは、勝手も知らぬ異邦にやってきた女の子が、一生懸命に振る舞っているように見えたに違いない。  身なりからすれば、生活に余裕があるはずはない……ローダン暮らすほとんどの人間がそうであるにしても。  とにかくナシラの素朴で愛らしい様子に、店主は一層相好を崩して答えた。 「お嬢ちゃん、そういうふうに頼まれちゃうと少し負けてあげたくなるね。特別に安くしとくよ」  緊張した面持ちのナシラは、店主の言葉を聞いてパッと顔を明るくした。 「あ、ありがと!」  思わず大きな声でお礼の言葉を発したながら、ぴょこんと頭を下げる。  ナシラは、胸の奥で何とも言えない感情が湧き上がってくるのを感じた。  はにかむような顔で、店主から受け取ったタマアを買い物袋にそっと入れると、ナシラはもう一度小さな声でお礼を言った。 「またおいで、お嬢ちゃん」  店主は優しい声でそう言うと、ナシラに軽く手を振った。  その場を離れると、イムレはナシラを労うようにすぐ横に寄り添い、ぴたっと体を寄せてきた。 「わ、な、何?」  ほっと緊張をほどいていたナシラはうろたえて、パナパウ語で声をあげた。   「うまくやったじゃない」  イムレはナシラの肩に手をやると、目を細めた。 「あ、あの、イムレ…あれで良かったの?」  イムレにひっつかれて軽く頬を赤らめながら、おずおずとナシラが尋ねる。 「上出来よ。さすがナシラね」  満足気に頷いてみせながら、イムレはそう答えた。 「でも、私、何もやってないよ……」  ナシラは困ったような顔でイムレから目をそらし、下を向いた。 「そんなことないよ。あのおじさんだって、ナシラが可愛いから負けてくれたんだから」 「えっ!?」  その言葉に驚いたようにナシラは顔をあげ、イムレの顔を見返した。 「ホントよ。おじさん、ナシラに見とれてたよ。気がつかなかった?」  イムレにそんな風に言われ、ナシラの顔が真っ赤に染まった。  言葉を返すこともできずに困ったような表情でうつむいてしまった。  イムレは目を細めたまま、面白そうにナシラの反応をしばらく眺めた後、言葉を続けた。 「さて、今日はしばらく分の食材を買いそろえなくちゃいけないから、もう少し付き合ってね。値引き担当、頼りにしてるからね」  そういうとイムレは通りの先にある次の露店を視線で示し、ナシラを促すように歩み始めた。 「あ、待って……!」  ナシラは慌ててイムレの後に小走りに歩み寄り、離れぬように後に続いた。 ーーーーーーーーーーーー  その日、ナシラとイムレは通りに並ぶいくつかの店を巡り、袋いっぱいに食材を買いそろえた。  初めての街で、初めての姿で、店での初めてのやりとりに終始緊張しながらも、ナシラは無事に買い物を終えることができた。  いつの間にか外国人の少女の姿で雑踏の中に立っているということに対する恥じらいや緊張感も薄れていた。  だがその時、通りの向こうから制服を着た警官がゆっくりと近づいてくるのがナシラの目に止まった。  なんの気なしに視線を通り越した後、ナシラの表情が硬くなった。  自分が身分を証明するものを何も持っていないということに気がついたからだ。  ナシラの胸が急に高鳴り始めた。  もし、今の姿で身分を問われたら、不法移民と見なされるかもしれない。  そうなれば逮捕され、警察署に連れて行かれて拘留されてしまうこともあり得る。 だが、最も恐ろしいのは、身分調査によって自分の本当の正体が明らかになってしまうことだ。  拘留された身元不詳のパナパウ人の少女の正体が、実はラグラウス家の長子だということが知られるようなことがあれば、家の名誉に関わることであった。  そうなればエヴランが今まで築いてきたものが、すべて台無しになってしまうに違いない。  不安に胸を締め付けられるような気持ちで、ナシラは思わず身をすくめ、下を向いた。  様子の変化に気がついたイムレが訝しげな視線をナシラに向けた。  だがナシラは、警官が横を通り過ぎていくのを、祈るような心持ちで、ただ小さくなってじっとうつむていた。  やがて通りすぎ警官が何事もなく離れていくのをちらと確認し、ナシラはようやく小さく息を吐いた。  緊張残るナシラの表情を見て、イムレは不思議そうに尋ねた。 「どうかしたの?」  ナシラは固い表情のまま、何でもないようというようにふるふると首を振った。  緊張のあまり、少し震えていたようにナシラは感じていた。  何事もなかったかのように見せるためにナシラはそろそろと歩き出した。  通りの喧騒を離れ、ふたりは細い路地を抜け、アパートへの帰路についた。 (つづく)


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