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パナパウから来た少女 ~クレンターニャの秘術~ #8 エレアの来訪

 ナシラはイムレとのローダンでの暮らしにすっかりと順応しつつあった。  そんなある日、ナシラとイムレがいつものように朝の支度を終えたころ、アパートの入口から軽やかなノックの音が響いた。  ナシラは驚き、イムレを見やる。  朝方からの訪問者に、心当たりはない。  だがイムレは落ち着いた笑みを浮かべ、静かに扉の方へ向かった。  イムレが扉を開けると、戸口に立っていたのは、エレアだった。  少しも変わらずきちんと整った身なりで、柔らかな、それでいて冷静な表情を浮かべている。  その視線がナシラに向けられ、ナシラは思わず居住まいを正した。  褐色の頬がわずかに緊張で強張る。  しばらくの間、エレアはナシラの様子を見定めているかのように見つめていた。  どうしてかナシラの緊張は高まり、鼓動の音が感じられるようだった。  それには、本来の自分を知っている人間にナシラに成りきっている様子をみせてしまったことに対して感じる羞恥心も影響しているのだ。  エレアはかすかな笑みを浮かべ、ナシラに声をかけた。 「久しぶりね、ナシラ。こちらでの生活、ちゃんと慣れたようかしら?」  ナシラは緊張を胸に抱いたまま、咄嗟に答えた。 「エレアさん……おひさしぶり、です。どうぞ……おはいり、ください」  いつもと変わらない拙い片言の、パナパウ訛り入ったログレス語だった。  それを途中まで口にしながら、ナシラはエレアに対しては別にナシラを装う必要もないということに気がついた。  だが、考えてみれば普通のしゃべり方を最後にしたのはどれほど前のことだろう。  咄嗟に発した今の言葉遣いの方が今のナシラにとっては、はるかに自然なものになっていた。  それに、ナシラに成りきった今の姿で、以前の自分のように振る舞うことこそかえって気恥ずかしく感じることも事実だ。  そうな風に考えて、ナシラは普段通りに振る舞うことを決めた。  ナシラとしての自然な姿をエレアにみせることは、羞恥以上にどこか愉悦を感じさせる行為であった。  エレアは、ナシラの答え……その拙い言葉遣いに満足そうな笑みを浮かべたように見えた。  室内に進み入ると、まるで何かを見定めようとするかのようにゆっくりと周りを見渡す。 「今日はあなたの様子を見に来たのよ」  そう言うとエレアはもう一度ナシラに視線を戻し、しばしの間じっと見つめた後、軽くうなずいた。 「どうやらナシラとしての生活にもきちんと馴染めているようね」  ナシラの頬がわずかに赤く染まった。  ゆっくりと意識して、エレアの望むような言い方で、ナシラは答えた。 「はい……エレアさん、わたし、がんばって……勉強してます」  エレアはナシラの初々しいような反応に微笑んでみせ、今度はイムレの方を向いた。 「イムレ、ナシラの様子はどうかしら?このところ、彼女はどんなふうに過ごしていたの?」  イムレはちょっとの間考え込み、ナシラにをちらりと一瞥してからその問いに答えた。 「この子はすごく頑張っているわ。毎日外に出て買い物をしたり、家事だってしっかりできるようになったし。ただまあ、時々緊張している時もあるけれど……」  エレアはナシラに目を戻し、優しく尋ねた。 「ナシラ、あなたはここでどんなことを経験したの?少しでも自然に振る舞えるようになれたかしら?」 ーーーーーーーーーー 「……それで、わたし……店主とも話して、値引きもしてもらった」  少しばかり熱のこもった調子で、ナシラはここでのナシラとしての体験を、ベッドに腰掛けたエレアに報告していた。  エレアの聞き上手ぶりはたいしたもので、最初は語ることを恥ずかしがっていたナシラの気持ちを巧みに開かせ、話を盛り上げていった。 「素晴らしいことよ、ナシラ。それは、あなたにそれだけの魅力があるっていうことの証明なの」  エレアは目を輝かせながらそんな風に言って、ナシラの承認欲を満たしてやる。 「これからもその調子でどんどん挑戦してみるといいわ。ナシラは次はどんなことをやってみたいの?」  ナシラは少しの間考え込んでから答えた。 「次は……もっと違う、食材を買って、いろいろの料理、作ってみたいです。パナパウの料理、知りたいから」  するとエレアは、いたずらっぽく微笑んで応じた。 「あら、パナパウの女の子がパナパウの料理を作れないなんて、恥ずかしいことよ。それはちゃんと覚えなくちゃね」  エレアの冗談を聞いたイムレは思わず笑い出した。  おかしそうに口に手をやりながら、自分も付け加える。 「そうそう、ナシラ。恥ずかしい思いをする前に、練習しなくちゃね」  ふたりの顔を交互に見やり、ナシラは照れくさそうに微笑んだ。  それから元気に返事を返した。 「はい、がんばります!」  ひとしきり笑い合うと、エレアは今度はイムレに目を向けた。 「イムレ、ナシラのパナパウ語の方はどんな感じなのかしら?ちゃんと上達しているといいけど」  イムレはしばらく考えた後、「少しずつ話せるようになってきているわ。最初はぎこちなかったけれど、日常の会話で練習しているから、かなり上達していると思う」と答えた。  エレアは頷くと、今度はナシラに向き直った。 「じゃあ、実際にみせてもらおうかしら。ナシラ、あなたはお店の人とどんなふうに話をするの?」  そう言ってから、エレアは首をかしげてナシラに実演を促した。  ナシラは少し考えてから、いつも自分がしているようにパナパウ語で言ってみた。 「えっと……固パン、ひと籠ください。やすく、してくれませんか?」  エレアの前で改めてそんな風に実演してみせるのは気恥ずかしく、ときおり少し言葉を詰まらせてしまいながらも、ナシラは実演を続けた。  その様子を優しい眼差しでじっと見守っていたエレアの顔が、少しずつ満足そうな顔に変わっていく。  やがて頃合いをみて、エレアは告げた。 「そのくらいでいいわ……完ぺきではないけど、思った以上に上達しているみたいね。素晴らしいわ。ナシラ」  エレアに褒められたナシラは、顔をぱっと輝やかせた。  エレアはナシラの姿を細かく観察するように目を走らせながら、少し考え込むような仕草をしてみせる。  しばらくの沈黙の後、エレアは微笑みを浮かべて言った。 「ナシラ。正直私は驚いているわ。ほんのわずかな間にあなたはすっかりとその姿に適応できている。どうみても、可愛らしい女の子にしか見えないもの」  ナシラはエレアの賞賛に胸が高鳴り、嬉しさが込み上げてくるのを感じた。 「ほんとう、ですか?」  目を輝かせてナシラはそう尋ねた。   エレアは頷き、立ち上がってナシラに近づくと、そっと頬に手をやった。  ナシラは大きな瞳で間近に立ったエレアの顔を見上げた。  いたずらっぽいような微笑みを浮かべ、エレアは言葉を続けた。 「それに、田舎の子にしては立ち居振る舞いにも品があるし……あなたならきっとラグラウス家の新人メイドとして十分に通用するわ」  その言葉にナシラは思わず目を見開き、エレアの顔を見上げたまま、思わず両手を胸の前に持ち上げた。  少しの間をおいて、エレアの真意をさぐろうとするかのようにおずおずと不安げに口を開く。 「しんじん……メイドとして、通用するって、どういうこと?」  エレアは微笑みを浮かべ、ナシラの問いに答える。 「メイドのお仕事というものは、ただ部屋を掃除や洗濯をしたり、というけではないのよ。お客様や雇い主のご家族に対して、使用人として礼儀をわきまえ適切に振る舞うことが求められるのよ。あなたならきっとうまくやれると思うわ」  ナシラはごくり、とつばをのみこんだ。  エレアが自分に課そうとしている運命を理解したような気がした。  心の中に不安が押し寄せるのを感じながら、ナシラはエレアの提案について想像した。  ラグラウス邸で自分が新人メイドとして働く様子が脳裏に浮かぶ。  広々とした屋敷の中で、以前とは全く異なる立場で……パナパウ人の新人のメイドとして、他の使用人たちと一緒に下働きの仕事をこなしている自分の……ナシラの姿だ。  ナシラは顔が熱くなっていくのを感じた。  本来は屋敷の主である自分が下働きの少女に成りきって生活するということは、考えただけでも恥ずかしくてたまらないことだ。  なぜならば、屋敷の使用人たちは全員もともとの自分のことを知っているのだ。  もし自分の正体がばれたらどうなるのだろうか。  自分が見た目通りの外国人の少女などではなく、本当は屋敷の主であるということが他の使用人に知られたら、一体どんな目で見られるのだろうか。  そう考えると不安を超えた恐れの気持ちが、心の中でどんどん大きくなっていく。 「きっと……」  うつむいてナシラはつぶやいた。 「きっと、みんなは私を笑う……」  そう言って、ナシラは身震いした。  このローダン地区では、すっかりとナシラに成りきってうまくやりおおせていた。  だが、ラグラウス家で同じように不審をもたれずに過ごすことなど到底不可能であるように、ナシラには感じられた。 「ナシラ、大丈夫よ。少しずつ慣れていけばいいんだから」  明るく優しい声に、ナシラははっと顔をあげた。  イムレが包み込むような笑顔でナシラのことを見つめていた。  エレアもイムレの言葉にうなずく。 「ナシラ。あなたが今、何を心配しているのか私にはよくわかるわ。でも私の言うことを信じて。あなたなら大丈夫。ここで成し遂げたことに自信を持って挑戦してみるの。あなたなら間違いなくうまくやれるわ」  確信に満ちたエレアの言葉には、ナシラの不安を薄めていく力があるようであった。  ナシラは考えてみた。  ローダンでの生活で、ナシラはその見た目通りの存在として皆に受け入れられていた。  それは、ラグラウス邸でも同じではないだろうか。  ナシラは元の自分とはあまりにも違った存在だ。  屋敷の使用人たちはナシラを目にしたときに、元の自分と結び付けて考えるだろうか。  ナシラが堂々とナシラとして振る舞う限り、それはあり得ないことであるようにも思えた。  ナシラは想像した。  ラグラウス邸でのメイドとしての生活を。  かつての自分を知っている人たちの前で、かつてのサミラのような生活を送ることを。  それは、ナシラになった自分にとって、ローダン地区での体験よりもさらに刺激に満ちたものになるように思えた。  そんな風に考えると、羞恥や不安を押しのけて、エレアの示した道筋に沿って踏み出してみたいという気持ちが高まっていく。  いつのまにかナシラの心境は、感じていた不安をむしろ、楽しむようなものに変わっていた。 ーーーーーーーーーー  その夜、ナシラはアパートの自分のベッドでに横になって、エレアに渡された書類を見つめていた。  エレアから手渡されたその書類は、ナシラがログレスに合法的に滞在し働くことを許可する就労許可証だった。  どうやってエレアがナシラの名前で正規の就労許可証を取得したのかはナシラにはわからない。  だが、この書類によってナシラは、ログレスにおいて正式にパナパウ人の少女としての身分が与えられたということになる。  この書類を所持している限り、ナシラはどこに行っても自分がパナパウ人の少女、ナシラであるということを証明することができる、ということだ。  許可証には、パナパウ政府の出生記録が添付されている。  その記載を見たとき、驚愕がナシラの胸を打った。  そこにはナシラがサミラの娘として記載されていたのだ。  夜更けの静かな部屋の中で、自分の心臓の鼓動だけがナシラの耳に聞こえていた。  今の自分に、法的にサミラの娘という立場があてがわれてしまったという事実が、なんとも言えない気恥ずかしさを感じさせ、ナシラは頬を染めた。  いつのまにか元の自分の存在がどんどんと遠ざかり、ナシラという存在として固定されてしまっていくようだった。  そして、そのことをナシラは自ら望んで受け入れているのだ。  ナシラはあの日エレアが自分に告げた言葉を思い出した。 「……ご不安でしょう。大丈夫ですよ。お約束します……これはほんのしばらくの間のことです。あなたはすぐにこのお屋敷に戻ってくることになりますよ」  つまりエレアはあの時点で、いや、恐らくはナシラへの変身を持ちかけた時からこのことを企図していたに違いなかった。  ひょっとするとエレアはこのことだけではなく、もっと別のことを企んでいるのかもしれない……そんな想像もナシラの胸のうちに湧き上がってくる。  だがエレアがメイドのナシラという存在を作り上げたとして、一体彼女にとってどんなメリットがあるというのだろうか。  それに結局のところこれは、全てが自分の選択によっているし、いつでも終わらせることができることではないか。  やがて、考えを巡らすのにも疲れ、ナシラは許可証をそっと胸に抱きしめると、ベッドの上で疲れ果てた体の向きを変えた。  明日からの新しい冒険に胸が高鳴るような気持ちと、そのことへの羞恥。  不安定な漠然とした思いがナシラの心の中で渦巻いていた。  ナシラは、自分の本当の気持ちがどこにあるのかを煩悶としたまま、次第に眠りへと落ちていった。 (つづく)


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